二十億光年の孤独 / 谷川俊太郎

詩について:
 
 
先日、長男が通う中学校へ行ったのだが、図書室の壁に谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』は貼りだされているのに気付いた。貼りだされてから随分と時間が経過しているような質感であったが、谷川俊太郎の詩はこうやって学校教育に用いられがちだ。平易な言葉使いなので、単純に若い子向きと思われている節がある。
 
ただ、だからといって理解しやすいというわけではない。入口がソフトな分、分かりやすいという印象を与えているのかもしれないが、詩の場合、平易な言葉使い=分かりやすい、という図式は当てはまらない。教師の皆さんにはこのなかなか難しい詩を子供たちへ投げて終わりにしないで欲しい。子供たちが詩から離れてしまわないように想像力をもって楽しませてほしいなと思います。
 
 
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「二十億光年の孤独」 谷川俊太郎
 

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 
 
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読んで先ず引っ掛かるのは、火星人のくだりですよね。更に「ネリリ」とか「キルル」と畳みかけられちゃもうお手上げです。多分ここで詩から気持ちは離れてしまうと思います。ただ明確なタイトルがありますから、イメージとしてはかなりはっきりとさせることが出来る。要するに思春期の少年の姿が思い浮かびます。
 
大事なのはここで引っかかってしまい続けないことです。この詩は中盤からより具体的な描写が始まりますから、まずは最後まで読んでしまうこと。詩は分らないところは分らないままにしておけばよい。そのうち分かるかもしれないし、分からないままかもしれない。詩というはそんな長いスパンでのんびりと構えられる代物なんです
 
この詩の面白いところは置き換えて読むことが出来るところです。例えば、「火星人」を「あの人」と置き換えてもいいかもしれない。「火星人」を「地球の裏側の人」にしてもいいし、もっと思い切って動物に置き換えてもいいかもしれない。
 
後半の「宇宙」。ここは「世界」に変えてもいいし「心」にしてもいいし、「恋愛」とか「友情」に変えても面白いかもしれない。どうですか?そうやって自分の身近なものに置き換えて読んでみれば、違った感想をこの詩に持つのではないかなと思います。
 
僕が面白いと思ったのは「宇宙」を「インターネット」に置き換えて読んでみること。そうすると最初の「ネリリ」とか「キルル」がインターネット回線の立ち上がる音、世界を行き交う電波の音にも聞こえてきます。
 
そしてこの詩の一番のポイントは最後の「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」ですよね。くしゃみ?ん?何のことだろう?と思うかもしれません。よく言われるのは、誰かが噂をしているからくしゃみなんだよ、という解釈です。火星人が同じように地球人のことを考えているから、地球人である僕はくしゃみをする。そんな図式です。
 
でも僕はそうは受け取りませんでした。主人公は何故くしゃみをしたか。それは鼻がムズムズしたからなんです。何故鼻がムズムズしたか。ここはやっぱりネガティブな予感ではないですよね。主人公はこの詩で述べられているようなことに対してポジティブな予感を抱いている。それが彼の鼻をムズムズさせる。僕はなんかこっちの方がワクワク感があって好きです。
 
谷川俊太郎さんの詩はこのように自由度が高いです。平易な言葉使い。すなわちそれは言葉の意味を限定していないということ。故に1950年代に書かれた詩であってもインターネットに置き換えて読むことが出来る。本当に凄い詩人だなと思います。

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