BADモード / 宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『BADモード』(2022年)宇多田ヒカル
 
 
『Fantôme』(2016年)での復帰後の3作目『BADモード』で、宇多田ヒカルは早くも第2期のピークを迎えた。『Fantôme』での明らかにそれまでとは異なるフェーズ、大げさに言うと別人のような新たな佇まいは彼女の音楽の聴き手を更に押し広げている。
 
『BADモード』アルバムでは、何より目を引くフローティング・ポインツやA.G.クックとコラボした強烈なサウンドが強く語られがちだが、ここではやはり言葉に言及していきたい。つまりそれはこの作品には日本のポップ音楽が営々と格闘してきた日本語の音楽化に対する一つの到達点があるから。
 
正直言ってFantôme』までの宇多田ヒカルを僕はよく知らない。けれど、Fantôme』、『初恋』(2018年)と比較しても今作での言葉の切れ味は別格だ。いや、恐らくは前2作を経たからこその覚醒感。少なくともアルバム冒頭の3曲の時点で僕は圧倒されました。
 
言葉の意味性。勿論大切だが、昨今、音楽に限らず何事にも意味性が重要視されているような気がする。しかしこれは音楽。意味性よりも先ずもって音楽として機能しなければならない。そこで大いなる武器となるのが宇多田ヒカル独特の割符だ。例えば#5『TIME』での最初のヴァースをよく聴いて欲しい。ここでの言葉の載せ方を聴いていると、宇多田ヒカルの体内時計は例えば何気ない誰かの日記でさえも歌にしてしまえるのではないかと思ってしまう。また#7『誰にも言えない』でもラップ感はどうだ。よく聴くとこれラップ?でもそうとは思えないほどのメロディーとの馴染みのよさ。つまり彼女はラップだとか歌だとか考えちゃいない。言葉がそうとは気付かれないほどに音楽化されているだけなのだ。
#6『気分じゃないの(Not In The Mood)』はなかなか詩が出てこなかったそうで、街に出てスケッチをしたものをそのまま詩にしたことがLiner voiceで語られている。必要なものがあって必要ではないものが何もない完璧な情景描写で、それだけで参ってしまうが、ここで特筆すべきは言葉とメロディーが逆転している点だ。通常はメロディーという乗り物に言葉が乗るという感覚だと思うが言葉に載ってメロディーやサウンドが歌っているかのような感覚。上下逆さまになる浮遊感。つまりそれだけすべてが一体化しているということ。
 
言わずもがな、このアルバムはそこらじゅうで韻が踏まれている。第1期の彼女は知らないが、少なくとも『Fantôme』以降でさえ、ここまで韻を踏んではいなかったように思う。それなのに何故、『BADモード』アルバムではここまで韻が踏まれているのか。それは彼女の言語感覚がこれまでになく鋭敏になっていたからではないか。
 
つまりクリエイティビティというのは散発的にやって来るものではないということ。ピークは唐突にソングライティング、サウンド、歌唱、ありとあらゆるものが同時進行で訪れる。どこをどう切っても宇多田ヒカルは今、クリエイティビティのピークにある。

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