Month: 9月 2021
小指は震える
ポエトリー:
「小指は震える」
小指を
遠くに見える鉄塔と重ねてみた
すると、
ぶるっと音がして
小指から四方に電線が走った
目に見えるものはすべて捉えよと
うろ覚えの歌が言う
君は困らない
このままゆけるところまでゆける
はずだ
小指がぶるっとして
それは嘘だと弾けた
ところが
積み上げた仕草が
小指以上に語りかけてくる
すべて君の手柄だ
すべて君の手柄
すべて君の
すべて…
す…
小指が震える
2021年8月
Our Extended Play / Beabadoobee 感想レビュー
イカヅチ
ポエトリー:
「イカヅチ」
腕に繋がれた鷲が
猛禽類であることを自覚するが如く
如く
威嚇する
何を
この世界を
かつて、
己が身体で威嚇するものは
するものは
その隆々たる羽や
筋張った足や
足や
まっしぐらな眼光や
鋭い嘴や
今や、
開かれた空に放たれる
繋がれたままでも離さないお前の前夜はイカヅチ
イカヅチ
這い出る隙間もなくこの世の無情
無情
今夜、
お前の命はうるさい
うるさいにもほどがある
2021年7月
Pressure Machine / The Killers 感想レビュー
『風立ちぬ』(2013年) 感想その2
フィルム・レビュー:
『風立ちぬ』(2013年) 感想その2
映画『風立ちぬ』を見て今思うのは、やっぱりあれは菜穂子の物語だなと。二郎は子どもの頃から飛行機が好きでその道へ没頭しますが、栓なきことを言えばそれだけのことなんです。自分のもっとも良い時期に生涯の仕事をやり遂げた。それだけなんです。
じゃあお前はどうなんだと問われれば随分と心許ない。どころか二郎に比べちっぽけなことも成し遂げていない。そういう意味で言えば失礼ながら僕だけではない。世のほとんどの人がそうだと思います。
であるならば。二郎の生涯、と言ってもまだ壮年には程遠いですが、僕たちの人生とは少しかけ離れた世界とも言えるのかもしれません。にも関わらず宮崎駿監督はそうしたある種特殊なひとりのエンジニアの半生を描いた。なぜか?そこには菜穂子の存在があったから。それしかないように僕は思います。
この物語をもう少し知りたいと思って、原作のひとつにもなった堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読みました。原作と言うより着想を得た、と言ってよい繋がりだとは思いますが、そこで得た僕の感想はやはり、主人公の男は頼んない。
頼んないというのは物語の主人公としてという意味ですが、この物語の主人公は余命幾ばくもない女性とのサナトリウムでの交感、その言葉にならぬ、例えば夏草の先にしずくのように命が少しずつ溜まっていくような描写、そんな物語だと思うのですが、それに比較して主人公の男のつまらなさ。いや、二郎は優しくていい男ではあるんてすが、そうではなくこれは自分も含めた男のつまらなさなんだと思うのですが、突き詰めて言えば映画『風立ちぬ』での二郎もそれに似たような、彼は彼の人生をもしかしたら主体的に生きてきたというのとは少し違うのかもしれないと。
というところとの比較。菜穂子は完全に主体的であったわけですから、だからこの映画の二郎の半生というのは極端に言えばバックグラウンドに過ぎない。より重要なのは『風立ちぬ』というタイトルになっていますけど、そういう生涯の仕事をした、というはっきりと目に捕まえられるような代物ではなく、もう少しぼんやりとした抽象的なものが主題だったような気がして、その主題にもっとも近づいたのは菜穂子の方だったのではないかと。勿論二人の交感というところではあるけれど、それもより菜穂子の側にその働きかけはあった、というところが僕がこの映画はやっぱり菜穂子だよなぁと思うところではあります。
『風立ちぬ』(2013年) 感想その1
フィルム・レビュー:
『風立ちぬ』(2013年) 感想その1
「風立ちぬ」を観た
これは菜穂子の物語
あの子の命はひこうき雲
一粒。泣いた
これ、2015年に初めて『風立ちぬ』を見たときに書いた僕の詩です。下手な詩ですね(笑)。失礼しました。
一編の詩を読むような、詩集を開くとそこに匿われた物語が一気に吹き出し、詩集を閉じるとすべてが元に吸い込まれていく。あれは夢か幻か、いや現実だったのだと。そのようなじんわりとした余韻を残す映画でした。
映画は詩で始まり、詩で終わります。始まりはポール・ヴァレリーの詩の一節、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」(「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄訳)ですね。風が立ったのなら生きねばならぬ、ということでしょうか。
では風が立たなかったら。当然風が立たなくても人は生きねばなりません。風が立つ、立たないは別にして生きねばならぬのがつらいところではありますが、案外気がつかないだけですべての人に風は立っているのかもしれません。
明確に風が立った二郎。カプローニさんに導かれて我が道を進みます。一方で菜穂子はどうか。僕は菜穂子にも風は立ったのだと思います。というかむしろそこに心を掴まれた。
映画は荒井由実『ひこうき雲』で終わります。そうですね。歌の途中からはエンドロールに入りますが、映画はこの歌も含まれる、この歌でもって完結する、そんな気がします。
宮崎駿作品には「女=守られるもの」、「男=守るもの」という構図があるような気がしますが(とか言いながら僕はラピュタがめっちゃ好き。ま、所詮男ですから)、この映画での菜穂子はそこを凌駕しているような気がするのですが果たしてどうでしょうか。女性からはどう見えたのかな、というところです。
ところで、『風立ちぬ』、これまでと比してもとりわけ絵が素晴らしかったと思いませんか。この点で言えば宮崎駿作品の最高傑作ではないでしょうか。風景の動き、人の動作、角度、それに伴う周りの変化。そうですね、飛行機の上を歩く二郎とカプローニの足元がへこむところ、最高でした。人の動きを見ているだけでもうっとりしますね。僕が好きななところは眼鏡の中の目と実際の目がそれぞれ別に描かれていた二郎の横顔。同じくド近眼の人間として感動しました。
多分いつも以上に絵に力を込めていたような気はします。台詞ではなく風景で、絵でやり過ごす、というケースが非常に多かったように思いました。この映画は詩で始まり詩で終わると言いましたが、そういう絵で見せるという部分も僕にそう思わせたのかもしれません。つまりここは意図的かと。詩というのは言葉ではなく風景なのかもしれません。