詩について:
「兄弟/ビートたけし」
詩を書く時はもちろん作者の個人的体験や見たこと聞いたこと、 或いは長年培った思考や物事への捉え方がベースになりますが、 それはあくまでもトリガーに過ぎず、 詩において作者の喜怒哀楽というのは重視されません。 むしろ作者自身の喜怒哀楽から離れることでその言葉は詩になりえ るものだと思います。
例えば宮沢賢治の詩は賢治の個人的な体験や思想から出たものであ るけれど、我々が読んでもとても心に響くものです。 これは何故か。 賢治の詩は個人の喜怒哀楽にとどまってはいないからです。 宮沢賢治は自身の詩のことを‘心象スケッチ’と呼びます。 この言葉が全てを表していますよね。だから我々はそこに入り込むことが出来るんです。
だから詩は日記とは違うんですね。 個人的な体験がそのまま綴られた日記、 あるいは個人的な感情がそのまま吐き出された日記に他人が入る余 地はありません。せいぜい、あぁ、あなたは嬉しかったんだね、 あなたは悲しかったんだねというぐらい。 その言葉はその人だけのもので、 そこから広がってゆくものではないんです。
次に取り上げるのはビートたけしさんの「兄弟」という詩です。たけしさんはお笑いだけじゃなく絵も描きますし文章も書きます。映画監督としては外国で大きな賞を取るほどの名監督ですよね。つまりたけしさんも賢治同様、自身の個人的な体験を他人事のように描けるひとなんです。
加えてこの「兄弟」という詩は子供時代の話ですから、もう何十年も前のことを思い出して書いている。つまりこの時点で個人的な体験から距離が十分に取れているんですね。簡潔で大切な部分だけが純化されている。流石のたけしさんも昨日今日の体験ならここまで描けなかったろうと思います。
「兄弟」 ビートたけし
兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれて行ってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後から入ってきた、タバコを吸ってる人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんは僕をバスに押し込もうとした
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた
心象スケッチ
賢治とたけしの例え、わかりやすい。
「雨ニモ負ケズ」も「兄弟」も自分、読み手が共感出来るとこあるのはそういう事なんやなぁ。納得。
質問
個人的な体験からの距離となると、心象をスケッチすることに限ると、齢を重ねた書き手の方が味わい深く表現できるのかなぁ。
それとも読み手こそ、齢を重ねたから心象を読みとるのかなぁ。
実に興味深い。
コメントをありがとうございます
心象をスケッチするのに年齢は関係ないと思いますね。若くてもスケッチできる方、たくさんいますから。
けれど若いときしか表現できないこと、年を取ってからでしか表現できないことはあると思います。受けとる側でいうと、若い時にしか感じ得ないこと、年齢を重ねたからこそ感じ得ること、これもありますよね。
なるほど。同じ対象物への心象もその時で変化しますね。
ありがとうございました。
また、燃えよ剣を読み始めました。
ミーハーですが。