「カセットテープ・ダイアリーズ」感想レビュー

 

フイルム・レビュー:

「カセットテープ・ダイアリーズ」(2020年)感想レビュー

 

「カセットテープ・ダイアリーズ」を観ました。先ずは久しぶりの映画館、僕は平日の朝イチの回を見に行きまして、予想通り人はまばら、ていうかほぼ空席でした(笑)。ま、この時期ですから、みんな外に出るのを控えてるんだと思います。とはいえ映画館ではマスクをして大人しくしているわけですから、朝晩の通勤電車に比べればよほど安全ではないかなと(笑)。なんにしてもやっぱり映画館で観るのはいいですね。しかも僕にとっても特別な人、ブルース・スプリングスティーンを題材にした映画ですから尚のこと素晴らしい時間となりました。ありがたや、ありがたや。

映画の主人公ジャビドと同じく多感な頃にブルースの音楽に出会った身としては、もう涙腺緩みっぱなしでした。ブルースのあの声とE ストリート・バンドの演奏と、そしてジャビドを奮い立たせるかのように視覚化されたリリック、僕は40後半ですけど、もう年齢は関係ないです。よい音楽というのは時代を越えてしまうものなのです。

そしてこのことは僕にとっても新しい発見でした。ブルースの歌は今の僕にとっても有効であると。あの頃心を震わせた音楽というのは単なるノスタルジーではなく現在進行形でもあるのだということ。やっぱりブルース・スプリングスティーンの歌は成長の歌なんですね。

と随分映画の本題からは離れてしまいましたが、ジャビドはブルースの音楽を聴いて音楽がただの音楽ではなくなります。印象的なシーンはカセットテープをセットするところ。ジャビドはポータブル・テープレコーダー(ウォークマンって言っていいのかな)をベルトの腰の辺りに装着していて、真正面のバックルの位置ではないのですけど、そこにカセットテープをガシャっと押し込むんですね。すると気持ちに変化が起きる。ブルースの歌の力が装填されるんです。言ってみれば変身ベルトです。てことで仮面ライダー(笑)。ほら、平成ライダーはベルトにUSBとかカプセルとか差し込みますからね、僕はまさにあれを思い出しました。

そうやって、ジャビドはブルースの力を借りて変身をする。だから映画の序盤から中盤にかけてはジャビドがカセットを装填するシーンが沢山出てきます。好きな子に告白する時なんかまさにそう。ブルースの言葉を借りて力に変えていくのです。

それが中盤から最後にかけては少し様子が違ってきます。徐々にジャビド自身に変化が起きてくるのです。それがはっきりと分かるのはスピーチのシーン。ここに至ってはもうブルースのカセットを装填する必要はないんですね。ジャビドはブルースの言葉を借りることなくジャビド自身の言葉で話します。彼は単なる憧れからブルースをきっかけに自分を変えていくんです。翻って僕はどうだろうか。単なる憧れで終えてしまってないだろうか。やっぱり好きなら尚のこと憧れで終わりたくない。そんなことを思いました。ジャビドを見て大事なことを学べたような気がします。

この映画にはジャビド以外にも魅力的な人物が沢山登場します。ジャビドの家族、お父さんだけではなくお母さんや姉妹たちとのエピソードも心に残ります。ガールフレンドや学校の先生、カッコいいですよね。そんな中、特に印象的だったのはジャビドの親友、マットとループスです。

映画はジャビドとマットの子供時代から始まるんですね。小高い丘で二人は永遠の友情を誓います。そうですね、映画では激しいレイシズムもそこかしこに描かれています。パキスタン移民であるジャビドたちは随分とつらい目に合う。けれどマットはそんなことは気にしない。すごくシンプルにジャビドは友達なんです。で途中、ジャビドとマットが仲違いをする場面がある。けれどここで原因を作るのはジャビドの方だし、最後の方で夢に向かって順調に歩み出すジャビドに対し嫉妬とか距離を置くとかもなく、子供時代と変わらずずっとマットは同じトーンなんですね。なんかマット、素敵だなって思いました。あと関係ないけどマット、ピート・ドハーティにそっくりや(笑)。

そしてループス。ジャビドと同じパキスタン移民の彼がジャビドにブルースの存在を教えることになります。だからループスはジャビドにとって運命の人でもあるわけですが、例えば僕も十代の多感な頃にブルース・スプリングスティーンを知りました。それは雑誌だったんですけど、その文面というか紙面は今でもちゃんと覚えています。レンタルCD屋でブルースのCDを探している時のことも。大切な何かを知ったとき、出会ったとき、そこには必ずきっかけがあると思います。だからループスというのはそのメタファーというか、自分と大切な何かを結びつけた象徴でもあるわけです。

いつも変わらない非常にリアルな存在のマットと、放送室に忍び込んだり街中で一緒に歌い踊るファンタジーなループス、もちろんエンドロールに登場したようにループスも実在の人物なのですが、イメージとしてはユージュアルなマットとアンユージュアルなループスという対極にある人間関係がジャビドには存在したというのも大きな要素であったような気はします。

そして最後の場面。ジャビドが助手席に父親を乗せて旅立ちます。ここでかかるのが「Born To Run」。始めに言ったように僕はブルースの曲が流れると条件反射的にウルウルしちゃったんですけど、ここではそうはならなかったんですね。すごく清々しい気分で「Born To Run」を聴けた。それはブルースの映画だということで幾分興奮していた僕が劇中のジャビドと同じように曲に対して、ブルースに対してちゃんと距離が取れていったということだと思います。そしてジャビドと父親の乗る車が俯瞰で描かれます。ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードですよね。そして丘の上の見知らぬ少年のカットになる。ここですよね、バトンが繋がっていくという。

最初にも言いましたが、この映画で描かれるブルース・スプリングスティーンの音楽は単なるノスタルジーではないんですね。ここはすごく大事なところ、グリンダ・チャーダ監督の思いなんだとを思います。いろいろな出来事があってジャビドは旅立つ。ジャビドには過去があって今があって未だ見ぬ未来がある。そして丘の上に立つ少年もまたそうなんだと。更にはそれだけではない。助手席に座る父親だってそして映画を観ている僕たちにも過去があって今があって未来がある。この場面から僕はそんなメッセージを受け取ったような気がしました。

ジャビドが特別な経験をしたのは音楽でしたけど似たような経験、誰しもあると思います。音楽でなくても文学であったり映画であったり。そうではなく実際の人との出会いがそうだったかもしれないし、具体的な何かの体験がそうだったかもしれない。人にはきっと多かれ少なかれそうした経験があるのだと思います。

でも時が経ち、あの気付きは、あれは若気の至り、勘違いだったのかもしれないと思うときがある。あれは目が眩んだ戯言だったんだと。でもきっとそうじゃないんです。若気の至りだろうとなんだろうとそう感じたのは紛れもない事実で、それは今も心のどこかにちゃんと残っている、今の自分を形作っている大切な要素なんです。そのことをも思い出させてくれた。僕にはそんな映画でもありました。

最後にもうひとつ。グリンダ・チャーダ監督のユーモア、素敵ですよね。僕も沢山笑いました。マットのお父さんとか、ブルースの曲をバックに踊るマイケル・ジャクソン男とかめちゃくちゃ面白かったー!

テイラー・スウィフトからのサプライズ!急遽、新作「フォークロア」をリリース!!

その他雑感:

テイラー・スウィフトからのサプライズ!
急遽、新作「フォークロア」をリリース!!

テイラー・スウィフトのアルバムがサプライズでリリースされましたね。こんな時だからと、逆に今できることを積極的にトライして楽しんでいく。さすがテイラーさん、ポジティブですねぇ。

なんでもほぼリモートで作られたとのこと。それだけでもちょっとした驚きなんですが主要プロデューサーがなんとThe National のアーロン・デスナー、しかもBon Iverのジャスティン・バーノンも参加していてボーカルをとっている曲もある!タイトルが「フォークロア」というのも気を引かれます。

アーロン・デスナーとジャスティン・バーノンのコンビと言えばビッグ・レッド・マシンですよね。2年前でしたか、二人のコラボ・アルバムが出たの。このアルバムは僕も大好きで、このブログにもレビュー書きましたけど、ホントに素晴らしくって、その二人が参加するとあっちゃこれはもう聴かずにはいられないです。

僕はテイラー・スウィフトの熱心なリスナーではなく、手元にあるのは彼女が大ブレイクした「フィアレス」だけ。ミーハーですね(笑)。これは結構聴きましたけどただその後はね、どんどんセレブ化していって音楽の方までがっつりメインストリームに浸かっていきましたから、僕の興味は薄れていったんですけど、ここに来ておやおや、っていう力強さを感じてます。というのもジョージ・フロイドさんの事件後、ブラック・ライブス・マター運動をテロ呼ばわりするトランプ大統領に対し、「次の選挙では必ず落選させる」と発言したんですね。あぁ、彼女はそういう一面もあるのだなと。そこへ来てこのコロナ禍にも負けない創作ですから、これは俄然彼女に興味が沸いてきました。

さっそく今はSportifyで聴いてますけど、かなり良いですね。元々透明感のある切ない声の持ち主ですから静謐なサウンドがよく似合います。彼女はやっぱアコースティックな感じがいいですね。まだちらっとしか聴けてませんが愛聴盤になりそうな予感満載です。

さすがに急なリリースのせいかSportifyにリリックまだ載ってません。それに日本国内盤が出るのはまだしばらく先になりそうですね。僕は英語力が頼りないのでいつも和訳が記載されてる国内盤を買うのですが、これも間違いなくそうなりそう。それまではSportifyで楽しみたいと思います。

それにしても今年の僕の購入履歴、女性アーティストの割合が多くなってます。へイリー・ウィリアムズにフィオナ・アップル(←やっと国内盤が出て購入しました)にフィービィー・ブリジャーズ。ハイムも良かったです。世の動きを見てもこういう時は女性の方が柔軟なのかもしれませんね。

Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」感想

TV program:
 
Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」2020年7月19日放送回 感想
 
 
Eテレ「日曜美術館」で放送中の西洋絵画15選、3回目も非常に濃い内容でした。有名絵画ばかりなので絵画という点では特に目新しさは無いのですが、このシリーズの目玉は何と言ってもこれまでの放送、あるいはNHKが所蔵するアーカイブの中から登場する作家、あるいは著名人たちの過去映像です。今回もすごい人たちが登場していました。
 
冒頭のマネ「草上の食卓」で登場したイッセー尾形さん。大好きな方なので、ここでテンションが軽く上がったのですが、そのあとはあの池波正太郎!すげぇ、さすがNHKや、と思って見ていたらなんとゴッホ「ひまわり」のところで忌野清志郎だぁ!かっこいい!めちゃくちゃ興奮してしまいました。キヨシロー、ゴッホ好きだったんですね。ゴッホは僕も大好きなのでなんか嬉しかったです。と興奮してしまいましたが、ここのくだりはやはり棟方志功でしょうか。強烈なインパクトでした。
 
この回で僕が一番心に残ったのはピカソ「ゲルニカ」で登場した岡本太郎です。実物大の「ゲルニカ」のレプリカの前で語ります、「きれい」と「美しい」は違うと。「きれい」というのは誰かが作った規範にのっとったもの、あるいは型、時代に合ったもの。一般的に勘違いされているけど「きれい」と「美しい」は全然違うんだと。
 
つまりこういうことじゃないでしょうか。規範から外れていようが何しようが関係ない。作家は真に感じたものを筆やペンを介して表現をする。自分の中に湧き上がる塊、過去にあったどれとも違う新鮮なものを既存の元ある言葉、表現、色使いとは異なる手法で表現をする。そりゃそうです、今までの誰とも同じでない塊なわけですから。で、そこに作家それぞれの固有のアプローチがあり、そこに「美しさ」はある。すなわち司会の小野正嗣さんが流暢なフランス語で仰ったように「醜悪なものにも美は存在する」のです。
 
それにしても、、、ピカソが富士なら岡本さんは何合目あたりですかと問われて、「僕はもう越えちゃてると思うけど」と答えた岡本太郎、かっこええ!

仲直りの調べ

ポエトリー:

「仲直りの調べ」

 

今ごろ
月明かりを浴びて
仲直りの調べ
奏でて
始まる

先ずは
喉から
手が出るほど
惜しいな
のどかな

でも
声にも
引き取れない
こだま
かたまり
こだわりは捨てて

異次元からの
空間を
熱っぽく
やり過ごす

月明かりを浴びて
のどかな
道なりは
見たこともない足跡
これは
だれの?
まさか
わたしの?

わざとらしく
そちらを見やり
忘れ物を
届けに
ひた走る
ふりをする

行こう
月明かりを浴びて
仲直りの調べ
奏でて

わざとらしく
物音をたてるも
喜びや
悲しみは
まだ始まらず

ワカリアエ
ナケレバ
イケナイ
ワカラ
ナケレバ
イケナイ
道ばたに
咲いた
誰かが描いた

 

2020年7月

私たちの音感は霧に包まれて

ポエトリー:

「私たちの音感は霧に包まれて」

 

私たちの音感は霧に包まれて
何気ない日常が今日も切り取れない
純粋な闇に飲まれて
今日もおはようが見えない

おはよう、
言ってみた
感覚を軽く削っても
少しも空は染まらない

いっそ時間を早送りすればと
逃げる心持ち
そこに見知らぬ人が立っていて
こんにちはと言ったら助けてくれるというリアル
私のこんにちははリアルかな

イヤホンは
夜に絡めてもゼロの付近を行ったり来たり
回線はより混乱し続け
今度はおやすみが言えない

10年ひと昔と言ってしまう心持ちが鼻持ちならない
体は備えている
君に会う準備を
それでも君がやめてと言ったらすぐにやめれる男でいたい

心と体が真っ直ぐに向かう先の音感は霧に包まれて
おそらく明日もおはようが言えない

 

2020年6月

Notes On A Conditional Form/The 1975 感想レビュー

洋楽レビュー:

「Notes On A Conditional Form」(2020年)The 1975

(仮定形に関する注釈/The 1975)

 

 

前作の「ネット上の人間関係についての簡単な調査」(2018年)が外へのメッセージがふんだんに盛り込まれた大作だったし、今回の「仮定形に関する注釈」は「ネット上の~」と対となる作品だなんて聞かされていたものだから、なんとなく、よし次も大作が来るぞなんて構えてしまっていたけど、リリースされて1か月以上経った今思うのは、この作品はそんな肩肘張ったものではなく、彼らの日常からポロリと零れ落ちた諸々の日々を歌う何気ないアルバムなんだなということ。

このアルバムは前作にも増してサウンドがあちこちに飛びまくって、いきなりグレタ・トゥーンベリのスポークン・ワーズで始まったかと思えば、マット・ヒーリーが喉がちぎれんばかりに叫びまくって、その後には一転して壮大なストリングスによるインスト、そんでもって心の弱さを歌う軟弱なエレクトリカルが続いたりと、サウンドだけじゃなく歌詞の方も行ったり来たり、心の円グラフがスピードを変えてあっち行けばこっちにぶつかるようなめまぐるしい展開をしていく。

ただ確かにこれは一般的にはめまぐるしい展開ということになるんだろうけど、実際にはそんなめまぐるしいなんて思わないし、至って自然に僕たちの心にストンと収まる。それは何故かって、やっぱり僕たち自身があちこちに飛びまくる心の持ち主で、心の有り様はいつも同じところに留まっているわけじゃないからだ。

今多くの人がSNSで色々なことを発言しているけど、多分それはいつも同じ内容ではなくて、調子のよい時もあれば具合が悪い時もある。政治的なことを言っちゃう日もあればくだらない痴話を言ってしまう日もあるだろう。自然災害がこれだけ続けば環境問題だって気になるし、レイシズムは絶対嫌だし、もっと自然に生きていければいいのなぁと思ったり、自分がとことん嫌になって沈んじゃう日もある。でもそれも特別なことではなく当たり前の日常。で僕たちはそれを殊更隠し続けたりしない。もうマッチョである必要はないのだから。

つまりはこのアルバムはあのThe 1975が出した「ネット上の~」に続く続編!ってことで大騒ぎをするような代物ではなく(もちろん大騒ぎするのは楽しいけど)、その正体は彼らの中にある毎日のいろんなことを考える気持ちを少しずつ切り取った雫のようなアルバムだったということで、面白いのはそれが僕たちの日常ともかぶさってくるという点だ。

マット・ヒーリーは自分の体験をもろに歌う人なんだと思うけど、今回はそこに僕たちが入っていける余地が大いにあるというか、もちろん僕はクスリをやったことはないし、知らない子とキスしたりしたこともないけど、あぁこれ分かるなって余地がふんだんにあって、それはやっぱりマット・ヒーリーの言葉に向かう姿勢に変化があったからなんだと思う。自分のことであってもすごく誰かの物語感が強くなった気はするし、距離感は微妙に変わってきている。グレタの声で始まって最後はバンド・メンバーのことを歌って終わるっていうのは象徴的なんじゃないかな。単純に言葉が近くなったなぁと思います。

それともう一つ。図らずもそのグレタ・トゥーンベリがスポークン・ワーズで語っているように僕たちはもう色々なことをはっきりと言うべき時に来ているということで、それは決して誹謗中傷という意味ではなく、はっきりと良くないものは良くないと言わなければならないということ。今までのように悪いことをうやむやにしたり、良いことに知らないふりをしたり、よくある大人の見識としてやっぱりこれはアレだからアレにしようとか言ってなんとなく灰色になっていくというやり方はやっぱ失敗だったよって。

でとっくにThe 1975ははっきりと語っている。お前節操ないなと言われようが今思うところをはっきりと語っている。そりゃ時には間違っている場合があるかもしれないけど、その時は訂正すればいいという自由なスタンスで今思うところをはっきりと述べている。このアルバムは僕たちの日常に即して今起きつつあるそうした変化を一つ一つ丁寧に語っていくという一面もあるような気もします。

大事な事というのは知らぬ間にやって来て知らぬ間に過ぎ去ってしまう。変化というのは気付かぬうちに起きているのだとすれば、この「仮定形に関する注釈」はその静かな変容についてのアルバムなのかもしれない。

ブロークバック・マウンテン」(2005年 )感想

フィルム・レビュー:

「ブロークバック・マウンテン」(2005年 アメリカ)感想

 

少し前に見た「君の名前で僕を呼んで」と同じく男同士の恋愛を描いた映画ではあるけれど、アプローチとしては真逆かもしれない。「君の~」が人の悪意が表に出てこないある意味現実離れした世界であったのに対し、本作では悲惨な描写も含めてゲイが普通の人と同じように生きていくことの出来なさを描いている。

映画は1963年から20年に渡る二人の関係が描かれている。途中、イニスが9歳の頃に目撃した同性愛者の悲惨な末路を語る場面があるけれど、それから数十年経った1980年代においても彼らを取り巻く環境は大きく変わっていなかった。

そんな中、二人はなんとか‘マトモ’であろうとするのだが、心に嘘は簡単につけるものではないし、人が生きていく上でも最も重要な愛の持って行き場がそれであるならば尚の事ごまかし続けて生きることは困難で、自分だけではなく周りの人をもその苦悩に巻き込んでしまう。現に二人とも女性と結婚をし子供を持ち、‘フツウ’の生活を営もうとするのだが…。

そういう意味では開き直りつつ自身のセクシャリティーに素直であろうとしたジャックの方が割と上手くやりくりをしているように見えるのは皮肉だ。一方のイニスは元来の不器用な性質もあり、掴みかけた‘マトモ’な生活を手放してしまう。

僕たちが暮らすこの文化というのは一体何が正しいのだろうか。少なくとも二人が過ごしたブロークバック・マウンテンでの日々でそれを問われることはなかった。羊や自然には関係のないことだった。しかし山を下りた途端、そこには社会が広がり、文化が広がり、そこからはみ出して生きることは到底許されなかった。たとえそれが自分にとって不自然な生き方であっても。

本来はストレートであったイニスと元々ゲイであったジャック。二人の生き方の対比が物語が後半に進むにつれ、より鮮明になっていく。物語の最後、上手くやれていたはずのジャックはこの世を去っってしまう。本来は悲しみだけが残るはずなのに、悲しみだけではない複雑な感情を残して…。

最後、イニスの元に別れて住む娘がやってきて結婚式に出席してほしいとお願いをする。今まで仕事が忙しく娘の願いを聞いてやれなかったイニスだったが、娘が本当に愛する人と結婚をするということを聞いて、彼はなんとか都合をつけて出席するよと笑顔でこたえる。それは何ひとつ人並みな幸せを掴めなかったイニスが初めて手にした素直な喜びだったのかもしれない。

ドラマチックにいいことが起きるわけでもないし、どうしようもない物語が続いていくのだけど、時間を忘れて2時限ずっと引き込まれていく、そんな映画です。

映画の舞台は1960年代から1980年代だけど、今現在はどうなんだろうか。確かにクイアに関しては理解されやすくなったとはいえ、本心を隠して生きている人はきっと多くいるだろうし、なかには映画の二人のように異性と結婚をして子供をもうけて、という人もいるかもしれない。

そういう事実はなかなか表立ってこないけど、きっとしんどい思いをしている人はたくさんいるのだろう。ではマジョリティーである僕たちはどうすればいい?

映画は積極的に知ろうとしなければなかなか耳に入ってこないことをエンターテイメントに落とし混んで教えてくれる。改めて映画は素晴らしいメディアだなと思いました。