詩について:
詩の読み方
日本の現代詩はよく分からない、読むのが困難というイメージがあります。けれどそれは当たり前。日本語で書かれたものだからつい小説やエッセイのようにすっと入ってくるイメージですが、実際は作者があーでもないこーでもないと、人によっては言葉を削って削って抽象化していく訳ですから、やっぱりそんな簡単に読めるものではないんですね。
だから読む方も何だこれはということで何度も何度も読み返す。そうすることで、この詩はどうやらこういう意味ではないかというのがようやく立ち上がってくるのです。中にはパッとすぐに響いてくる場合もありますが、作者は言葉に無いものを言葉で表そうとしている訳ですから、そうそうすぐにピンと来るものではない。というのが僕の詩への向き合い方です。
なんだメンドクサイなと思われるかもしれませんが、歌だってそうですよね。何度も聴いているうちに、あぁこれはこういうことかって別の側面が立ち上がってくるときがある。詩も音楽も芸術作品であるならば、そうやって時間をかけて楽しむものとして捉えていいんじゃないでしょうか。指でスクロールしてハイ終わり、というものではなく、カバンの中にお気に入りの詩集を入れて、或いはスマホの中にこれは何だろうと思った詩をコピーしておいて、思いついた時にまた見てみる。そういった付き合い方、電車の中でイヤホンを耳に差すようなノリで気軽にパラパラと読むのがいいんだと思います。
あと現代詩が困難というイメージは小学校の国語の授業で付いてしまったという部分もあるような気がします。詩は本来自由に読めばいいんですね。作者の意図はあるにせよ、読み手は自分の解釈で自由に読めばいい、100人いれば100通りの理解があっていいわけです。
ところが学校の授業では、ハイここはどういう意味だと思いますか?とかここで作者はこういう心境を歌っていますね、なんて言われるものだから、生徒たちはちんぷんかんぷん、多分小学校時代の僕も頭の上にも?マークが出ていたんだと思います(笑)。本来答え何かないものに答えを与えようとしたもんだから、詩はなんだかよく分からないもの、というイメージが付いちゃったような気もします。中原中也の「ゆあーん ゆよーん」なんて先生に説明されても何のこっちゃですよね(笑)。「ゆあーん ゆよーん」って変なのって、言葉で遊べばいいんだと思います。
先のブログで身の程知らずにも萩原朔太郎の「鶏」を解説しましたが、あれもあくまでも僕の解釈ですし、それも明日また読み直したら変わってくるかもしれない。詩というものは大雑把でも強引でも何でもいいから、想像力を働かせて自分勝手に面白がればいいんだと思います。
専門家から見たら、なんだその浅い見方はなんて言われようが、結局は個人的な楽しみ、作者と読み手との一対一のコミュニケーションなんですから、自分なりに解釈して勝手に面白がってればいいんだと思います。批評家の評論なんてクソ食らえ!ですね(笑)。あ、評論家の評論も面白いですよ。
話が逸れましたが、そうやって詩を読んでるうちに自分では気付かなかった心の中の何かと合致する、自分にそぐう言葉が見つかる、自分の身の丈に合った詩がすっぽり収まるときがあるんです。それが楽しいっちゃあ楽しいのかもしれませんが、ま、結局は分かりません(笑)。
どっちにしても詩は高尚でも難解なものでもなく、身近なもの、生活に根差したもの、ともう少し自分の側に引き寄せればいいじゃないでしょうか。
分かったと思いきや、やっぱ分からん、そういう息の長い魅力が詩にはあるのだと思います。