映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

フィルム・レビュー:

映画『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

 

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言う友人のひと言を受け、少し考えた。結局、合う合わないはあるけど僕の考えたところによると、「シェイプ・オブ・ウォーター」はこんな話ではないだろうか。

例えば。僕たちはあるコミュニティーに属している。その最たるものは国家。もっと身近に言えば、職場、学校、クラス。それこそ無人島で自活でもしない限り、僕たちはある一定の社会に属している。

けれどそのコミュニティーというのは厄介で、あるルール、常識を強いてくる。勿論、そのおかげで僕たちの社会は破たんせずに成り立っているのだが、中にはそのコミュニティー内の常識が息苦しくなることがある。極端な例を出すと、女性は女性らしくとか男性は男性らしくとか。殊に成り立ちが村社会である日本ではその傾向はより強く、場合によっては同調圧、多様性の拒否といった形で表れることになる。

少し大げさに言ってしまったが、誰しも自分が属する、或いはかつて属したコミュニティーの中で、大なり小なりのそうした違和感を感じたことはあるはずだ。

そこへある日、異端者が現れる。これも極端な例で言うと、外国人が職場にやって来る、教室にやって来る。それも割と身近なアジア人ではなくほとんど接したことのないアフリカ人だとする。異端者と言ったが、ここでは宗教が違う、生活様式が違う、美的感覚が違う、そうした僕たちの日常とはかなりの程度距離のある文化的な差異のことを言う。恐らく、多くの人間にとって彼(ここでは例として‘彼’とする)の態度は理解しがたい。彼の存在を異質なものとして取り扱うだろう。場合によって彼はいわゆるホームシック、孤立感を深め、強烈に「ここは自分の居場所ではない」と感じるかもしれない。

一方で、元々そのコミュニティーに属している人たちに中にも、今いるコミュニティーにどうしても馴染めない人がいるかもしれない。普段彼女(ここでは例として‘彼女’とする)はそれを表には出さないが、心の内に強烈な違和感を感じている。そこへある日異端者が現れる。彼女が彼の違和感を同質のものではないかと感じ始めたとすれば、彼女が彼に興味を持つ、ある種の仲間意識を感じ接近するのも理解できる話だろう。

すると思った以上に彼の疎外感は彼女の疎外感と重なるところがある。自分が育った、暮らした社会の中に自分は見いだせないが、自分が行った事も無い場所の文化風土に初めて触れた時に、これこそ私の馴染むものだ、と感じることが時には起こる。恐らく、人にとって最も嬉しいことは自分を理解してくれる人に出会うことではないだろうか(最もつらいことはその逆ではないかとも思う)。

今言った極端な例に限らず、人は誰しも違和感を感じることがある。大きくそれを感じている身近な人にその違和感を払しょくできる機会が訪れたなら。友人はそれを了解するだろう。手を差し伸べるだろう。映画を観た人ならお気付きだと思うが、今述べた‘彼’が半魚人であり、‘彼女’がイライザのこと。手を差し伸べる人々がイライザの友人たちのことである。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言った僕の友人は、その場面必要?ってのが幾つかあって、そこにも拒否反応を示したとも言った。恐らく冒頭のイザベルの自慰の場面もその一つかもしれない。

主人公のイザベルは過去の出来事がきっかけで声が発せない。身なりも質素で一見静かな目立たない女性だ。その設定上、映画の観客は彼女を無意識のうちに貞淑な人と定義付けるかもしれない。けれど彼女は淑女でも無垢な存在でも何でもない。普通に性欲を有する僕たちと同じ存在。いい面もあれば、人に言えたものではない部分を心に有する僕たちと同じ存在なのだ。冒頭の自慰の場面はそのメタファーだったのだと思う。

僕だって多少の違和感は感じている。けれどそれは殊更ネガティブに反応するほどのことではない。ある社会に属している限り誰もが有するものであると分かっているし、それへの対処法も知っているからだ。けれど、そうではなくなる日がいつか来るかもしれない。僕たちがよく知っているように、今ある日常は明日もあるとは限らないのだから。加えてSNSという新しい社交場が重きをなす現在。この映画の出来事は僕たちの日常とはかけ離れた出来事として、突き放してしまえるものでもないのではないだろうか。

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