邦楽レビュー:
『平成』(2018)折坂悠太
講談師の神田松之丞が大変な人気らしく、私は確か一昨年ぐらい前にEテレでやってたインタビュー番組「SWITCH」で彼を知って、こりゃ面白れぇと早速音源を聴いたところそりゃ驚いたのなんのって。
私は同じくEテレの「日本の話芸」を毎週録画していますから、じゃあそこで時たまやる講談もいっちょ観てみようかなんて思って観てみますと(いつも落語以外は大概すっ飛ばします、すみません)、まぁ昔ながらの、あぁ講談ってこんな感じだったよなっていう印象で、なるほど、神田松之丞がだいぶ変わってんだなと。ま、それからは相変わらずすっ飛ばしております、あい、すみません。
で落語好きの友人に神田松之丞を紹介したところ、そいつは神田松之丞の講談を聴いても別に何とも思わなかったみたいで、私は拍子抜けした気分にもなりましたが、そういやそいつは音楽を聴かねぇやつだったじゃねぇかと、なるほどと一人得心しておりました。
どういうことかと申しますと、神田松之丞という講談師は兎に角大げさで、過剰で、やたらめったらエネルギーを放射する。恐らくその過剰さを私は気に入ったんですけど、要するにその過剰さというのは私にとってはロック音楽なんです。それも若い奴のやるロック音楽。過剰っつってもパンクやメタルなんていう騒がしい音楽という意味ではなくて、大人しくったって過剰で心象が騒がしい音楽はそこらじゅうにあるわけで、いちいち表現がオーバーな奴っているでしょ?でもその過剰さっていうのは重要で若さの特権なんです。
若いくせに過剰じゃねぇロック音楽なんての私は興味ないです。てことで、落語好きなのに神田松之丞がピンと来なかったのはそいつが音楽を聴かねぇやつだったからという理屈です。
前置きが長くなりましたが、折坂悠太です。過剰です。苦味とか雑味だらけでやたらめったらエネルギーを放射して暑苦しいです。どういうわけか「みーちゃん」とか「夜学」とかを聴いてると、米国のジャム・バンド、デイヴ・マシューズ・バンドを思い出しまして、ジャカジャカした感じとか、サックスの感じですかね?暑苦しいなんて言いましたけど、デイヴ・マシューズ・バンドっぽいっつってんだから、悪い気はしないでしょ、折坂さん。
なにしろ言葉がいいです。例えば1曲目の『坂道』。「重心を低く取り / 加速するこの命が / 過ぎてく家や木々を / 抽象の絵に変える」。続いて2曲目『逢引』は「互いの生傷を暗闇に伏せている」。いい表現するじゃないですか。
言葉で言うとダブルミーニング、掛詞が目に付きました。#2『逢引』の「各都市のわたくしが」は「各年(若しくは各歳)」にも聞こえます。#6『みーちゃん』の「みーちゃん、だめ」は「見ちゃだめ」だろうな。#7『丑の刻ごうごう』の「朝間近」は「浅まじか」或いは「マジか?」に聞こえます。
意図的なのか偶然なのかは知りませんが、たとえ偶然だろうと見て見ぬフリをする大胆さをお持ちではないかと。何かのインタビューで「字余りになるのが嫌で、言葉を綺麗に揃えてしまう」などと几帳面な事をぬかしておりましたが、この緊張と緩和はやはり日本の話芸と相通ずるものがございます。
ちなみに私が折坂悠太の『平成』をウォークマンに取り込んだ日は、昭和の大名人、5代目古今亭志ん生と5代目柳家小さんの落語を取り込んだ日でもありまして、只今、私のウォークマンにはこの3名が‘最近録音したもの’という同じカテゴリーに並んでおります。どうだい折坂、恐れ入ったか、コノヤロー!
Tracklist:
1. 坂道
2. 逢引
3. 平成
4. 揺れる
5. 旋毛からつま先
6. みーちゃん
7. 丑の刻ごうごう
8. 夜学
9. take 13
10. さびしさ
11. 光