わたしの家

ポエトリー:

「わたしの家」

 

ひとつひとつは小さいけれど
積み上がったことばかりが
重くのしかかる

そのひとつひとつが家をなしていて
ローンを払い続けている
払う気はないのだけど

朝歯を磨いていると
首筋に歯型を見つけた
いつ付いたのか定かでない

街へ出るとひとそれぞれに
等しく歯型があることに気づいた
が、向こうは気づいていないようで

なぜ今朝のわたしには見えるのか
わからないがローンが満期を迎えるものだけの特権
のような気もしてきた

そうだ
そろそろそれは
わたしのものになる

 

2025年10月

『HAYABUSA JET』の「再定義」について

 

『HAYABUSA JET』の「再定義」について

 

『HAYABUSA JET Ⅱ』が12月にリリースされるとのこと。どうやら今年の佐野は「再定義」に夢中のようだ。思惑通り新しい聴き手のもとに届けばよいのだが、離れていたかつてのファン(要は年配者)を引き戻すだけだったとしたらちょっと残念。というか「Ⅰ」の時はそっちの意味合いの方が大きかったのではないかという不安はある。あくまでも印象だが。

僕がファンになった1992年は『Sweet16』アルバムやシングル『約束の端』がヒットした年ではあるけど、10代の僕がのめり込んでいったのは初期の『No Damage』や『Someday』を聴いたからであり、1992年にリアルタイムで流れていた『Sweet16』などはそのきっかけに過ぎない。

1992年当時でも1980年代初期のアルバムはバンドの演奏やサウンドがとても古く感じられたけど、そんなことお構いなしに僕は佐野の細く若い声とそこにしかない当事者としての歌詞、意思表明に惹かれた。つまり当然のことながら、いくら「再定義」しようが69才の佐野が歌う「再定義」には若葉の頃特有の’何か’は存在しない。

「再定義」はあくまでもきっかけに過ぎないし、それでも格好いいサウンドだなぁと単に音楽として興味を持ってもらえばそれでOKかもしれないが、いくらスピードを上げ『DOWNTOWN BOY』を「再定義」しようが、そこに僕がこの曲に想う最も大切なものは含まれていないわけで、つまり『HAYABUSA JET』に出来ることは限られているんじゃないかということ。それでも新しい世代に佐野元春という人の音楽を知ってもらえれば、それで十分だとは思うけど、それじゃ物足りないなと思うのは結局僕の独りよがりなのだろう。

「再定義」と言っても大きな枠で言えばセルフカバー。今年は45周年でもあるし、なんだかんだ言いつつそれはそれで僕も楽しんでいる。そう思えるのも2023年に『ENTERTAINMENT!』、『今、何処』という2枚の新作があったから。とはいえ本音としちゃそろそろ新しい歌を聴きたいところではある。ま、飽きっぽい佐野のことだし『Ⅲ』はないんちゃうかな。

忘れたらごめんなさい

ポエトリー:

「忘れたらごめんなさい」

 

朝早く、ほうぼうからトングを手にした人々が集まる。品定めして、名物の大きめのクロワッサンから売れていく。今朝思いついたことは噛りかけ。できることは今ないです。

ここまで来ることができたのは、スピードに乗って空を仰いだことがあるからで、たとえこんな日でも、何にしようかと迷うのことの方が、大事だと思ったから

けれどそのスピードとは裏腹に、トングは大きめのクロワッサンすら掴めずに、手首から先はほどなく、恋しくなるほどふがいなく、記録も何も残らない。

帰り道の商店街を過ぎた辺りから、不意にロケットにでも乗って何処かへ行きたい気分がして、でもそれが望めないから、せめて通りの向こうの高台へジャンプする、気持ち。雲の水分をひと煮立ちして蒸発させれば、水素ロケットぐらい作れるのじゃないか、そんな気持ちで。

パン屋で焼かれる大きめのクロワッサンと普通のクロワッサン。手間はどちらがどうでどちらを多く焼くのだろう。などと思いながら、注文した食パン一斤分ならトングは使わなくていいから大丈夫、たぶん夕方には取りに行ける。

そのままでも美味しいし、ベーコンやトマトをはさんだらもっと美味しいことを想像して、でも夕方にはまだだいぶ時間があるし、午後からはお客さんが来るから、パン屋の皆さん、うっかり忘れたらごめんなさい

 

2025年4月

Clearing / Wolf Alice 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Clearing』(2025年)Wolf Alice
(クリアニング/ウルフ・アリス)
 
 
リードシングル『Bloom Baby Bloom』を聴いた時(というかMVを見た時)には随分びっくりしたけど、あれはアルバム全体を象徴するものでなくスポット的なものだったようだ。それが残念なのかホッとしたのかよく分からないのが正直な気持ちで、このアルバムをどう評価するのかという点においてもそれはまったくその通りだった。
 
『Bloom Baby Bloom』はマネスキンやラスト・ディナー・パーティーのような、どんだけ派手やねんというグラマーないで立ち、ドラマティックな曲、というところを受けての、なんでもできまっせなウルフ・アリスからの回答のような曲。エリーさん、どうしちゃったの?という派手なメイクにレオタードという格好でそれはもうたまげたのだけど、アルバムを通して聴くと、このスタイルをアルバム全体に推し進める手は最初からなかったのが分かる。
 
むしろそれは表面的なところではなく実直的なところで、つまり『Bloom Baby Bloom』は確かにグラマーな曲で、見た目的にもクイーンのそれかもしれないけど、クイーンの本質もアコースティックな美しい曲にあるし、あとフリートウッド・マックとか、ともすればシンガーソングライター的に曲を聴かせるタイプの、そういう良い曲を丁寧な演奏で聴かせる70年代の英国の伝統的なロック音楽の一要素、ウルフ・アリスの狙い目はそこだったんだなと。
 
確かにそれは分かる。でもね、、、派手な曲がもうちょっと欲しかったなというのが本音です。1曲目の『Thorns』から『Bloom Baby Bloom』と来て『Just Two Girls』への流れがとっても良くて今回もええやないかと思ったけど、そのあとが真面目過ぎるやろと。最後の『White Horses』と『The Sofa』がまた素晴らしいだけに中盤の真面目パートがちょっと残念。いや、いい曲を丁寧にやってるのはわかるし確かにいいのはいいのだけど、ロック的なカタルシスが、というところです。
 
前作『Blue Weekend』(2021年)が大作だっただけに、この力の抜け具合はその反動かもと思いつつ、いや『Bloom Baby Bloom』があるやんと私的にはどっちつかずな印象のアルバム。とても良いバンドだし、エリー・ロウゼルもすっごい美人なのにいまいち地味な印象は否めないところに『Bloom Baby Bloom』が来て、うわー、クイーンでレオタードやー、これで一気にドーンと行けー、と思ったのも束の間、アルバムは真面目な優等生。。。もしかしたらこれはいかにも歯がゆい、とてもウルフ・アリスなアルバムなのかもしれない。
 
英国チャートは1位を獲得。ひとつ前のアルバムがよいと、その次のアルバムのセールスは伸びる、という流れだけど、この次のアルバムはどうなるのだろうか。見当つかないな。

夕暮れ

ポエトリー:

「夕暮れ」

 

夕暮れに眠る存在が
わたしたちの今日を明るくする

それは頬をなでる平たい手
収穫の時の流れる汗
ショーウインドウのドレス

母親の自慢の百日紅がこちらを向いて咲いている
あの日、戯れに腰掛けようとした少年のわたしは
触れることさえできずに
眺めているだけだった

問題があった方に手をかざしても
それはなかったことにはできないし
ただ物質的に日差しを遮るだけ

それでも
分け隔てなく手を伸ばし
凍りついたものは溶けて
緩みきったものは固まる
そんなふうにして
今日も夕飯の支度

知ったり知らなかったりするものが
入れ替わり立ち代わり現れては
夕暮れに眠る存在が
わたしたちの今日を明るくする

 

2025年7月

お逃げなさい

ポエトリー:

「お逃げなさい」

 

これは本物の銃だから
あなたは早く背中を見せてお逃げなさい
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はないだろう

なぜならあなたの胴は鋼より硬く葉脈より静かだから
なぜならあなたの問いは山脈よりも険しくせせらぎよりも掴めないから

そういう事を知るまでは
十年はここに戻らずお逃げなさい

ある日仕打ちが
それまで幸福の裏返しの仕打ちが
あなたの社におとずれるでしょう

そのときには黙ってお受けなさい
変わり果てていくこと
ものが壊れていくこと
忙しさにかまけること
夏の暑さにばてること
流れていくこと
雨が降ること
それでも社は森の奥で静かでいること

ときに誰かと会い
ときにあせり
ときに祈り
ときにあれをし
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はできないないだろう

転がっているのは
本物の塊
本物の石
本物の祈り

だから早くここを去りなさい
あと十年は背中を見せてお逃げなさい

 

2025年7月

「黒川の女たち」(2025年)感想

フィルム・レビュー:
 
「黒川の女たち」(2025年)
 
 
戦後80年が経ったけど、まだ終わっていない。この言葉にピンと来ない人もいるだろう。僕もそうだった。けれど、知ることでその意味が少しずつわかってくる。ずっと公にされなかったこと。こういう事実があったということは、この映画で明かされたこと以外にもきっとまだまだあるということ。言いたくても言えなかった人。絶対に言いたくなかった人。それぞれにそれぞれの理由があり、80年経った今も胸の中にしまったままのひとが大勢いるのだろうということ。胸にしまったまま亡くなったひとも大勢いるのだろうということ。
 
近頃はドキュメンタリー番組をしょっちゅう見るようになった。今まで手に取らなかった類の本も読むようになった。単にそれは年を取って、より社会の出来事に関心が向くようになってきたからだと思っていた。確かにそれもあるかもしれないが、今は少し違う見方もしている。様々な情報が溢れる世の中で、少しでもちゃんとした態度で物事に接したい、知ることでそれを補っていきたい、特に過去から学べることは多いのではないか、そういう防衛本能のようなものが働いているような気もしている。
 
私たちには想像力がある。けれどひとりよがりの想像力ではいけない。想像力は勝手には養われない。だから私たちは学ぶことで、知ることで、見ることで、想像力をより柔軟なものにしようと努める。映画を観ることもそのひとつだと思っている。
 
映画の主題から離れるけどもう1点。今やSNSのおかげで誰もが好きなように言いたいことを言える世の中になった。基本的にそれはよい世の中だと思うけど、最近はそれもどうなのかよく分からなくなってきた。この映画に出てくる堂々と顔をさらしてしっかりと話すおばあちゃんたちを見て、公に話すとはどういうことか、その重さを突き付けられた気がした。おばちゃんたちの笑顔は本当に天使のようでした。

Willoughby Tucker, I’ll Always Love You / Ethel Cain 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Willoughby Tucker, I’ll Always Love You』(2025年)Ethel Cain
(ウィロビー・タッカー、アイル・オールウェイズ・ラブ・ユー/エセル・ケイン)
 
 
初めて聴く類の音楽の場合、よいのはよいのだけど、自分でもどこがどう気に入っているのか分からず戸惑ってしまうことがある。遠くはレディオ・ヘッド、ここ数年で言えばビッグ・シーフがそれにあたるが、エセル・ケインのこの作品もまったくその類。
 
ということで、じゃあどういう場合にこの音楽が流れていると合うのかを想像してみる。要するに勝手に自分の脳内でミュージック・ビデオを再生してみるのだが、どうやっても明るく朗らかな風景はマッチしない。真昼間であってもくすんだ感じ、もやがかかった感じ。影のあるイメージしか浮かばない。
 
登場人物は何をしているか。活発な活動をしているように思えない。気だるい寝起きのベッドとか食事をしているシーンとか。食事のシーンは一人ではないな。恋人と二人、口の周りがベタベタと汚れたまま、つまり戯れて食事をしている感じ。とここまで書いて、これは性愛のイメージだなと思った。
 
食事や性や睡眠。ひとの根源的な欲求。そうしたものにまつわる音楽なんだろうかと思った時、しっくりと来るものがあった。このアルバムは恋愛についてのリリックが綴られている。進行形なのか、始まってもいないのか、終わった後なのか。いずれにせよ作者は求めている。愛する人への根源的な欲求を。世間体とか常識とかモラルではない。私は直接タッチしたい。愛し合いたいのだと。
 
ただ不思議と重くのしかかるような音楽ではない。僕が英語を解さないだけかもしれないが、普通に聴いていて気持ちがいい。つまりメロディーがポップなんだな。ゆったりした曲ばかりだけど、脳内でテンポアップしたらこれ、キャッチーなポップ・ソングになるんじゃないか。そういうメロディーのようだ。
 
インストが多く、しかも長いので、アンビエント・ミュージックの側面もある。でも環境音楽ではないな。ひとの中でくぐもる感じ。不思議な音楽だ。どこに仕舞えばよいのか分からない。ただ、只者ではない感は満載である。

I Quit / Haim 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『I Quit』Haim(2025年)
(アイ・クイット/ハイム) 
 
 
音楽に限らず、芸術は多様性から生まれる。皆が同じことを考え、同じことを感じているのであれば、なにも個人として表現する必要はないだろう。私はこう思う、私はこう感じる。固有のものの見方があるから作家は何かを表現するのだろうし、芸術を鑑賞することはそうした作家固有のものの見方を楽しむ行為とも言える。
 
このところ思うのは、僕はただ単に音楽や文学や絵画が好きなだけだったけど、知らず知らずのうちに芸術を通して多様性を学んでいったような気がしてならないということ。もしこれらが好きでなかったら、きっと今のようなものの見方は育まれなかったかもしれない。
 
ポップでおしゃれな作風でデビューしたハイムだが、キャリアを重ねる毎に女性として、いやひとりの人間としてのあるべき態度についての言及が増えてきた。なんだかんだと女性が不利益を被る男社会に対して、私がこうする、私が決める、といった主体的な態度は多くのリスナーに影響を与えていることだと思う。今やエンパワメントするロックバンドの筆頭ではないだろうか。
 
聴いてて清々しいのは、誰かを糾弾するということではなく、自然体でそれらの主張をしている点で、当たり前のことを当たり前に歌い、女とか男とかではなく自分たちのやりたいようにパフォーマンスをしているだけだという態度。今回のアルバムでは特にそれが顕著で、例えば大胆な表現のミュージック・ビデオにおいても、あくまでも私たちが主導しているという意思が感じられ、それはやっぱりカッコいいなと思う。
 
本作の大きな転換点はプロデューサーが変わったこと。ずっと一緒にやってきたアリエル・リヒトシェイドから元ヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムがダニエルと共に本作のプロデューサーを務めている。サウンドはよりアーシーなアメリカン・ロックに近寄ってきているが、元々の素養があるので、おしゃれで洗練された部分は相変わらず。その上でよりシンプルで直接的なロックが前面に立った感じだ。ダニエルのギター・ソロが聴けるのが嬉しい。#7『 The farm』や#15『Now it’s time』のいかにもヴァンパイア・ウィークエンドなピアノ・フレーズにも顔がほころぶ。
 
本作では長女エスティと三女アラナもリード・ボーカルを取っている。#11『Try to feel my pain』ではダニエルがボーカルで、続く#12『Spinningではアラナ、そして#13『Cry』ではエスティと、それぞれの個人的な体験に基づくと思われる曲がそれぞれのボーカルで歌われ、そのまま三者が交代でボーカルをとる#14『Blood on the street』へ続く流れが最高だ。
 
ハイム独特のリズム感を引き立てている絶妙な言葉の載せ方はダニエル独自のものだと思っていたが、エスティもアラナも抜群の体内時計で言葉をフックさせてくる。さすが音楽一家だ。ダニエルのロックな歌いっぷりに加え、エスティの落ち着いた声、アラナの甘ったるい声もいい味を出しているので、今後もこのスタイルは続けて欲しいなと思う。
 
プロデューサーが変わっただけじゃなく、アルバム・タイトル(I Quit = やめた)に象徴されるような意識の変化もあったようで、アルバム全体に感じる清々しさは今までになかったもの。新しい扉をまた開いたような感じはする。三人の並列感がより際立ったアルバムにもなっていて、彼女たちの物事への向かい方もより明確になったようだ。勿論今回のアルバムからも僕は影響を受けている。
 
 

海へ

ポエトリー:

「海へ」

 

あからさまに物言うことがなくなってきた
ひどいことばに打ちのめされることも
夕焼けは夕闇に吸い込まれ帰るべくして帰る
それが自然なことだと知ったのは
物言わぬ生に気づいたからかもしれない

変わり果てた銘柄の
名のある様式がプラスチックゴミとともに
プカプカと浮かんでいる
その様子を描くことをわたしのパレットはゆるさない

その絵具は誰ひとり不平は言わないけど
ゆるさないこととゆるすことの間に漂う棒切れのような営みを
駆け寄って奪い合うほどの熱意が
今の私にはもうない

ただだからといって素知らぬふりなどできぬ意気地のない身体は
漂うプラスチックゴミと時を同じくして
戯れに点描の彼方を見やることで
己の均衡を保っている

背広の襟がたわむようにして沖へ
もう無理だと先を急ぐ群れにわたしはたったひとりでジャンプする
水飛沫あげる海

 

2025年6月