Never Know / The Kooks 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Never Know」(2025年)The Kooks
(ネバー・ノウ/ザ・クークス)
 
 
3年ぶりの7作目。2006年のデビューだからもう20年近くなる。当初はリリースが遅い印象があったが、このところは定期的に新作を出している。ベテランの域に入り、新しいことをしなくてはならないというプレッシャーからいい意味で解放され、自然体で取り組めているのかもしれない。ウィキで調べると若く溌溂としたルーク・プリチャードももう40才。でも鼻にかかった独特の声は変わらないのが嬉しい。
 
前作はアルバムという意識から離れていたせいか、シングル集的な色合いが強かったが、今回はアルバムとしてのまとまりが出ている。もともとガチャガチャとしたロックでスタートした彼らだけど、そのしゃくりあげるボーカル・スタイルと相まって、ソウルやファンクといった黒っぽい要素が個性になりつつもあり、その最たるものが4th『Listen』(2014年)であったわけだけど、そこでの思い切ったトライアルがその後の作品にしっかりと根付いていて、気がつけば他に替えのきかない個性的なバンドに。ファンも根強く本作もしっかりと全英4位。
 
クークスと言えばルークのボーカルだけどギターも聴きどころ。派手にギャンギャン鳴らすタイプではないが、このバンドの記名性に大きな役割を果たしており、今回もことあるごとによいフレーズが聴こえてくる。しっかりと背後でよい仕事をしている中、#6「Compass Will Fracture」の最後のように不意に爆発する感じがたまらない。ところでこの曲のサビはルークの声ではないようだけど、ギタリストが歌っているのか?
 
今回の特徴の一つはコーラス・ワーク。#2「Sunny Baby」では顕著だけど、それ以外にも何気ない形でコーラスが多用されている。レトロなソウル#8「Arrow Through Me」なんて雰囲気がとてもよく出ていて最高。それにしても巧みなソングライティングだ。色んなタイプの曲があって、よく聴くと複雑な構成でテンポも変わる。しかしそうとは感じさせないスムーズさ。一部でキーボードを使用しているけど、基本はギターとドラムとベースのみ。しかも手数で誤魔化すのではなく、必要最小限の表現で表情豊かにとらえていく。今まで気づかなかったけど、このメンバーすごいかも。
 
やってることは凄いのに大したことしてないぜという軽やかさ。オープニングの表題曲「Never Know」における落ち着きといい、ガチャガチャとしたロック小僧がいつのまにやらポップ職人である
 

適温

ポエトリー:

「適温」

 

心の糸がもつれている
すべてをスタンダードに戻したい
鍵穴は壊れてしまった
雨音は数え切れない

地道にいきたい
仮にスペースがあっても
もう小躍りしないで
ゆき過ぎる

その事自体に罪はない
しかしそれを無条件で受け入れるなんて
今のぼくには若さが足りない

夕暮れはもたつきながら春の様相
セーターの毛玉をほつきながら
ぼくは適温を探している

 

2025年3月

SABLE,fABLE / Bon Iver 感想レビュー

『SABLE,fABLE』(2025年)Bon Iver
(セイブル、フェイブル/ボン・イヴェール)
 
 
2021年にビッグ・レッド・マシンとしての新作はあったが、ボン・イヴェールとしては2019年の『i,i』以来となる5枚目。随分と久しぶりだが、その間にロック・シーンは再び明るさを取り戻してきた。2010年代のロック低迷期に新しいロックのあり方を示し続けたボン・イヴェールが今のロック活況期にどうアプローチしていくのか。先ずそこのところに興味があった。
 
アルバムに先立ち4曲入りEPとして『SABLE』をリリース。本アルバムはの『SABLE』を冒頭に据え、『fABLE』と題した8曲を加えたもので構成される。『SABLE』はデビュー当初のようなアコースティックな手触りで、なかには『AWARDS SEASON』のようなほぼアカペラ状態の曲もあったりする。とはいえ、それもよくよく聴いてみるとそうだなぁというレベルで、改めてアカペラでもびくともしないジャスティン・ヴァーノンの特殊な声に気付かされたりもする。
 
こういう感じで進むのかなと思いきや、本丸とも言えるfABLE』では一転してかつてないほどのポップ・ソングが並ぶ(ポップ・ソングと言っていいのかよく分からないけど)。ビッグ・レッド・マシン含め、ボン・イヴェール名義でも実験的な音楽という感じがずっと続いていたけど、ジャスティン・ヴァーノンと言えばのボーカル・エフェクトも目に付くのは『Walk Home』ぐらいで、あとは彼の生身の声(と言っても特殊だけど)。こうなってくると益々デビュー当初のようだけど、やっぱりこのポップさはかつてなかったものだ。
 
どういう経緯でこうなったのか分からないけど、オープンで多幸感満載の『Everything Is Peaceful Love』があって、次曲では一転個人的な『Walk Home』になって、その次はまたオープンなゴスペル『Day One』になる。続く『From』と『I’ll Be There』は80’sだし、『If Only I Could Wait』ではハイムのダニエル・ハイムとのデュエットでエモく盛り上げ​、実質最終曲の『There’s A Rhythmn​』ではほぼ電子ピアノのみで穏やかに締める。アルバムとしての統一感がないと言えばないが、いろんなタイプの曲があって人ぞれぞれ気に入る曲が異なるような仕組みになっている。こんなことって今まであったか。
 
あれだけコミュニティーについて歌ってきたジャスティン・ヴァーノンが分断の時代に何も思わないわけはない。Sable(漆黒)と題された冒頭が彼自身の内を巡る個的な物語とすれば、Fable(寓話)と題された主要部はみんなの歌だ。お馴染みのボーカル・エフェクトどころかファルセットすらないアコースティックな初めの4曲(正確には3曲?)の後は派手なトラックにファルセット全開で突き進む。まるで最初だけ静かに歌わせてほしい、あとはみんなで分かち合ってくれたら、とでも言うように。けれどそこにFable(寓話)と題してしまう。それはそれでどう捉えればよいのか戸惑うが、今はもうそう表現するしか他に方法はないのかもしれない。

ポエトリー:

「尺」

 

ある日、
わたしの中でひとが飛び出し
あることない事
わめいている

人間の仕様には大小様々あって
わたしもそのうちのひとつだが
時には嘆き、時には喜び
人には言えぬ物差しで成り立っている

時折、
勢いあまって飛び出すことがあるにはあるけど
ひとにはひとの尺があるのだと
夕べ知り合ったひとが
やはり飛び出しくだを巻く

正直なところ
わたしはそれを信じていない
信じていないが
そういうものがあるということを念頭に
どうやらものを考え、ひとと話をし、くしゃみをしているようだ

抑えきれぬ感情よりむしろ
平穏無事に行かせようとするもの
その限りにおいて
多分、未来は明るい

 

2025年4月

大きな心

ポエトリー:

「大きな心」

 

どんなひとにもふさぎ込んでしまう夜が
あるに違いない
そのころぼくは大好きな彼女と
キレイな花を
花を摘んでいる
悲しい顔は
繰り返さなくたっていい
ぼくには大きな
心があるのだ

どんなひとにも天に登る
そんな夜があるに違いない
そのころぼくはイヤなことだらけを
何度も何度も思い出している
悲しい顔は
繰り返さなくたっていい
人には言えない
ことがらがあるのだ

ときどき小さな花を届けてくれるきみが
友だちでほんとうによかった

悲しい顔は
繰り返さなくたっていい
人には言えない
ことがらがあるのだ
悲しい顔は
繰り返さなくたっていい
ぼくは大きな
心を持つんだ

 

2025年3月

Forever Howlong / Black Country,New Road 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Forever Howlong』(2025年)Black Country,New Road
(フォーエバー・ハウロング/ブラック・カントリー・ニュー・ロード)
 
 
バンドのソングライターでありボーカリストであったアイザック・ウッドなる人物が脱退したそうだ。批評家筋からの評価が非常に高く、いわゆるテクニカルに聴かせるバンドではあったのだけど、過去2作はざっと聴いても僕自身はあまりピンとこなかった。一般的にウケるようなバンドではなかったのかもしれない。
 
主要人物が抜けたことで、残ったメンバー5人のうちの女性メンバー3人(あとの2人は男性)が新たに曲を作り、新たに歌うようになったとのこと。しかもそれを3人が代わるがわる行い、スタジオ・アルバムに先立ち、新しい曲のみのライブ・アルバムを出したと言う。普通はバンド瓦解の危機ではあるのだけど、とてもポジティブに新しく活動をしている。
 
印象としてはフォーキーな方へ流れていったように感じる。その中でバンドの特徴であるホーンも交えながら演劇的な曲展開を見せるが、テクニカルな部分はそのままであっても風通しはよくなっているような気はする。まるでインディ・ロック・バンドによるミュージカルようで、歌詞は読めていないけど印象としては朗らか。とても重要なことだと思う。
 
3枚目ではあるけど、再スタートということで実質的にはデビュー・アルバムのようなもの。まだやりたいことに振り切れていない気はするし、曲そのものというよりバンド・アンサンブルで引っ張っていくスタイル。これからソングライティングを学んでいくだろうし、三者三様のボーカル個性も際立つようになるだろう。伸びしろはまだまだある。

この冬、故郷にて

ポエトリー:

「この冬、故郷にて」

 

この冬、故郷で災害があった
海からほど近いその町には幾つかの川がある
そのうちの一つに海から一メートル四方ほどの大きな石が大量に運ばれてきた
市境の橋が壊され、一人が亡くなった
私が子供の頃に何度も渡った橋だった

久しぶりに故郷へ帰った私はそこへ行ってみることにした
石は廃棄されずに一か所に集められていた
そこは川沿いの食品工場の広い駐車場だった
一方の角へ目をやると白っぽい石がひとつだけ、
その上にちょっとした敷物と簡単な囲いが用意され、コップと菓子が供えられていた
供養しているということだろうか

ほどなく食品工場から昼休憩を告げる控えめなサイレンが鳴った
とすぐ工場から若い女性がこちらに向かって歩いてきた
女性は私の横を通り過ぎ、白い石の祭壇の前で手を合わせコップの水を入れ替えた
どうやら今日は彼女の当番らしい

工場からもパラパラと人が現れてきた
そこに見覚えのある顔がいた
驚いた、あいつじゃないか
久しく会っていなかった、いろいろあって次第に私たちの元から離れていった友人
こんなところで働いていたのか

向うも私に気が付いたようだ
彼はあきらめたのか私に方に向かってゆっくりと歩いてくる
こけていた頬も幾分ふっくらとして顔つきが穏やかになっている
安心と少しの緊張で私は彼を迎えた

災害で亡くなったのはここの従業員、彼らの仲間だった
工場の再開後、彼らは亡くなった仲間を悼んで駐車場の一角に白い石で簡単な慰霊碑を立てた
仕事がある日は毎日順番にコップの水を入れ替え、時には家から持参のお菓子などを供えるのだと言う

私たちは色々な話をした
昔と同じに私が尋ねて彼が答えるといった具合に
昼休憩も終わり近くなり彼は工場へ戻っていった
昔と同じに一度も振り返ることなく

待ち構えていたように、私はさっきの女性に声を掛けられた
彼女は彼の色々を知っている様子だった
彼はそういうことを他人に言わない人だったが、そこに時の流れを感じ、同時に彼女はもうそういう人なのだと理解した
彼女は私に彼のケツを叩いて欲しいようだ
その様子に、十分あなたがひっぱたいているだろうにと思ったが、彼女には物足りないらしい
彼女はもうそういう覚悟なのだ

次の私たち友人同士の集まりに彼は来るだろうか
分からない
けれどそれでも構わない
来てくれたら嬉しいし皆も喜ぶだろうが、来なくてもそれはそれでいい
人には人の人生があるのだから

 

2025年2月

「名もなき者 / A Complete Unknown」感想

フィルム・レビュー:
 
「名もなき者 / A Complete Unknown」(2025年)
 
 
映画の良しあしを判断する材料として体感時間がある。あっという間に終わった、若しくは長かった。この映画は140分以上あるがあっという間に終わった。つまりとても面白かった。
 
映画はディランがN.Yはグリニッジビレッジに降り立つ1961年から始まり、エレクトリック・ギターに持ち換えたことで、一部の熱狂的なファンから裏切者扱いをされる1965年までの短い期間を切り取ったもの。目まぐるしく環境が変わっていく中、だからどうだという説明もなく次々と物事が進んでいく。特に後半はその傾向が強く、予備知識のない人には付いていくのがやっとかもしれないが、このスピード感、テンポ感こそが肝。
 
つまり誰しも若葉の頃は初めて立ち会う経験ばかりで振り返る暇もなく過ぎていく。激動期のディランは尚更である。その振り替える暇もなく、というところがテンポ感となって表現されており、一方で主役はディランなので、もちろん彼を軸に話は進むのだが、いわゆる伝記物と違いディランの内面に迫ることはしない。単純にそんなことできっこないというのもあるが、つまりそこを逆手に取ってのテンポ感という見方もできるのではないだろうか。後半、ディランがサングラスをかけているシーンが増えるのは、実際にそうだったのかもしれないが、彼の内面に迫る気はさらさらないよ、という監督のメッセージなのかもしれない。
 
その代わりと言ってはなんだが、ディランに関わる人々にもキチンとフォーカスされており、ジョーン・バエズ、シルビィ(スーズ・ロトロのこと)、ピート・シーガー、ウディ・ガスリー、そして60年代前半のグリニッジビレッジ。言ってみればディランその人のみに焦点を当てるのではなく、群像劇のように全体のシーンを描く、その中でディランの特異性が浮かび上がってくるという構図にもなっている。
 
それにしても主演のティモシー・シャラメ。歌は勿論のこと、ギターやハープまでも自演している。あのディランの’話すように歌う’独特の譜割を完コピしているのは驚き。『僕の名前で君を呼んで』でもピアノを弾いていたから音楽の素養はあるのかもしれないけどそれにしても凄すぎる。それに単にディランに寄せるだけでなく、ティモシー・シャラメとしての表現になっているのがいい。
 
映画はジョーン・バエズとシルビィとの恋模様も描かれている。サバサバとしたジョーン・バエズと生真面目なシルビィとの対比。けれど誰に対しても一向に気遣うところがない天才ディラン。女性からすりゃ最低な男だけどとにかく格好いい、許せてしまう。ディランはそういう人という刷り込みがあるからかもしれないが、単純に格好よく見えてしまうのは監督の手腕だろう。映画を観た後ではアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケットがより立体的になって素敵だ。
 
 
劇中、ディランのオリジナル音源は使用されない。すべて映画用に演者たちが録音したものだ。でもそれはそれで遜色なく、もしかしたらこっちの方が今の耳には聴きやすかったりする。冒頭の「ウディ・ガスリーに捧ぐ」なんて最高だ。実際のエピソードが散りばめられているけど、時系列や場所が結構違ってたりもする。でもそういうところがいいんだな。本当によくできた映画だと思う。今度は冷静な目でもう一回観たい、そう思わせる映画。

よいこと

ポエトリー:

「よいこと」

 

離れていても
これだけ知り合えるのに
わたしたちは無理を承知で
つながりたがる

気にするな、
誰であれ
ひと一人を知るのは遠い
ましてわたし自身でさえ

世界のつながりの中へ
わたしたちは足を掛けている
夜毎、一人ごとのように

足しても増えぬ不確かさが
順繰りにわたしを覆うことがあってもわたしは乗り気にならなかった
それはよいことだった

 

2025年3月

「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」感想

フィルム・レビュー:
 
「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」
 
 
知ることで何ができるわけでもないけれど、知ることで何がしらの自分の判断に影響を与えることはできる。小さなことではあるが、一人一人のその積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。知ったからってどうなるんだという無力への慰めではないが、近頃の僕はそんな傾向がある。単に年を取ったせいでもあるのだと思う。とてもナイーブすぎる意見というのは承知している。
 
僕たちが仕事に出掛けたり、夕飯の支度をしたりしている間にも誰かが理不尽な目に合っている。なんの罪もない子供だって殺されている。そんなことをいちいち気にしていては生きていられないけど、その事実は知った方がいいし、圧倒的な弱者が圧倒的な強者に虐げられているのなら、僕たちは圧倒的な弱者の声に耳を傾けないといけない。
 
共同監督を務めたパレスチナ人のハムダン・バラル氏が、西岸地区の自宅でイスラエル人入植者から暴行を受け、イスラエル軍に連行された。アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した後である。映画の中で「行方不明になって帰って来た人はいない」という言葉があった。無事を祈るしかない。
 
そもそも、カメラを回しているのにイスラエル軍や入植者はカメラをほとんど遮ろうともしない(中には遮ろうとする場面があるにはあるが)。つまり彼らは悪いことをしているという感覚がない。世界中にニュースとして流れるであろう共同監督の拉致だってお構いなし。
 
映画の中で入植者が銃を手に迫ってくる場面の恐ろしさ。まるでフィクションの映画のようだと錯覚するけど実際の映像なのだ。急にやってきて、ここに軍用地を作ることに決まったからと、静かに暮らしている人々の家をぶっ壊し、気に入らなければ銃を向ける。そして実際には軍用地など作らない。狂っている。まともではない。
 
どんな映画でもたくさんの下調べが必要だ。準備に何年もかかる。それに適当なことは言えない。お手軽なSNSとは違うのだ。この作品は怖い場面もあるし、確かにハードルが高い。しかし映画というのは大いなるメディアだ。僕たちはそれなりの時間をそれなりの集中力をもって観る。この行為はとても大切だと思う。
 
確かに知ることで何ができるわけではない。でも知ってもらうことで何がしらの影響を与えることはできる。その積み重ねが国単位の方向性を決めることもあるかもしれない。そのことを信じて、映画に関わった人たちは死と引き換えの覚悟で撮影をした(実際に拉致されてしまったけど)。僕は映画の力を改めて強く感じた。