お逃げなさい

ポエトリー:

「お逃げなさい」

 

これは本物の銃だから
あなたは早く背中を見せてお逃げなさい
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はないだろう

なぜならあなたの胴は鋼より硬く葉脈より静かだから
なぜならあなたの問いは山脈よりも険しくせせらぎよりも掴めないから

そういう事を知るまでは
十年はここに戻らずお逃げなさい

ある日仕打ちが
それまで幸福の裏返しの仕打ちが
あなたの社におとずれるでしょう

そのときには黙ってお受けなさい
変わり果てていくこと
ものが壊れていくこと
忙しさにかまけること
夏の暑さにばてること
流れていくこと
雨が降ること
それでも社は森の奥で静かでいること

ときに誰かと会い
ときにあせり
ときに祈り
ときにあれをし
けれどどんな痛みもあなたを撃ち抜く事はできないないだろう

転がっているのは
本物の塊
本物の石
本物の祈り

だから早くここを去りなさい
あと十年は背中を見せてお逃げなさい

 

2025年7月

「黒川の女たち」(2025年)感想

フィルム・レビュー:
 
「黒川の女たち」(2025年)
 
 
戦後80年が経ったけど、まだ終わっていない。この言葉にピンと来ない人もいるだろう。僕もそうだった。けれど、知ることでその意味が少しずつわかってくる。ずっと公にされなかったこと。こういう事実があったということは、この映画で明かされたこと以外にもきっとまだまだあるということ。言いたくても言えなかった人。絶対に言いたくなかった人。それぞれにそれぞれの理由があり、80年経った今も胸の中にしまったままのひとが大勢いるのだろうということ。胸にしまったまま亡くなったひとも大勢いるのだろうということ。
 
近頃はドキュメンタリー番組をしょっちゅう見るようになった。今まで手に取らなかった類の本も読むようになった。単にそれは年を取って、より社会の出来事に関心が向くようになってきたからだと思っていた。確かにそれもあるかもしれないが、今は少し違う見方もしている。様々な情報が溢れる世の中で、少しでもちゃんとした態度で物事に接したい、知ることでそれを補っていきたい、特に過去から学べることは多いのではないか、そういう防衛本能のようなものが働いているような気もしている。
 
私たちには想像力がある。けれどひとりよがりの想像力ではいけない。想像力は勝手には養われない。だから私たちは学ぶことで、知ることで、見ることで、想像力をより柔軟なものにしようと努める。映画を観ることもそのひとつだと思っている。
 
映画の主題から離れるけどもう1点。今やSNSのおかげで誰もが好きなように言いたいことを言える世の中になった。基本的にそれはよい世の中だと思うけど、最近はそれもどうなのかよく分からなくなってきた。この映画に出てくる堂々と顔をさらしてしっかりと話すおばあちゃんたちを見て、公に話すとはどういうことか、その重さを突き付けられた気がした。おばちゃんたちの笑顔は本当に天使のようでした。

Willoughby Tucker, I’ll Always Love You / Ethel Cain 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Willoughby Tucker, I’ll Always Love You』(2025年)Ethel Cain
(ウィロビー・タッカー、アイル・オールウェイズ・ラブ・ユー/エセル・ケイン)
 
 
初めて聴く類の音楽の場合、よいのはよいのだけど、自分でもどこがどう気に入っているのか分からず戸惑ってしまうことがある。遠くはレディオ・ヘッド、ここ数年で言えばビッグ・シーフがそれにあたるが、エセル・ケインのこの作品もまったくその類。
 
ということで、じゃあどういう場合にこの音楽が流れていると合うのかを想像してみる。要するに勝手に自分の脳内でミュージック・ビデオを再生してみるのだが、どうやっても明るく朗らかな風景はマッチしない。真昼間であってもくすんだ感じ、もやがかかった感じ。影のあるイメージしか浮かばない。
 
登場人物は何をしているか。活発な活動をしているように思えない。気だるい寝起きのベッドとか食事をしているシーンとか。食事のシーンは一人ではないな。恋人と二人、口の周りがベタベタと汚れたまま、つまり戯れて食事をしている感じ。とここまで書いて、これは性愛のイメージだなと思った。
 
食事や性や睡眠。ひとの根源的な欲求。そうしたものにまつわる音楽なんだろうかと思った時、しっくりと来るものがあった。このアルバムは恋愛についてのリリックが綴られている。進行形なのか、始まってもいないのか、終わった後なのか。いずれにせよ作者は求めている。愛する人への根源的な欲求を。世間体とか常識とかモラルではない。私は直接タッチしたい。愛し合いたいのだと。
 
ただ不思議と重くのしかかるような音楽ではない。僕が英語を解さないだけかもしれないが、普通に聴いていて気持ちがいい。つまりメロディーがポップなんだな。ゆったりした曲ばかりだけど、脳内でテンポアップしたらこれ、キャッチーなポップ・ソングになるんじゃないか。そういうメロディーのようだ。
 
インストが多く、しかも長いので、アンビエント・ミュージックの側面もある。でも環境音楽ではないな。ひとの中でくぐもる感じ。不思議な音楽だ。どこに仕舞えばよいのか分からない。ただ、只者ではない感は満載である。

I Quit / Haim 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『I Quit』Haim(2025年)
(アイ・クイット/ハイム) 
 
 
音楽に限らず、芸術は多様性から生まれる。皆が同じことを考え、同じことを感じているのであれば、なにも個人として表現する必要はないだろう。私はこう思う、私はこう感じる。固有のものの見方があるから作家は何かを表現するのだろうし、芸術を鑑賞することはそうした作家固有のものの見方を楽しむ行為とも言える。
 
このところ思うのは、僕はただ単に音楽や文学や絵画が好きなだけだったけど、知らず知らずのうちに芸術を通して多様性を学んでいったような気がしてならないということ。もしこれらが好きでなかったら、きっと今のようなものの見方は育まれなかったかもしれない。
 
ポップでおしゃれな作風でデビューしたハイムだが、キャリアを重ねる毎に女性として、いやひとりの人間としてのあるべき態度についての言及が増えてきた。なんだかんだと女性が不利益を被る男社会に対して、私がこうする、私が決める、といった主体的な態度は多くのリスナーに影響を与えていることだと思う。今やエンパワメントするロックバンドの筆頭ではないだろうか。
 
聴いてて清々しいのは、誰かを糾弾するということではなく、自然体でそれらの主張をしている点で、当たり前のことを当たり前に歌い、女とか男とかではなく自分たちのやりたいようにパフォーマンスをしているだけだという態度。今回のアルバムでは特にそれが顕著で、例えば大胆な表現のミュージック・ビデオにおいても、あくまでも私たちが主導しているという意思が感じられ、それはやっぱりカッコいいなと思う。
 
本作の大きな転換点はプロデューサーが変わったこと。ずっと一緒にやってきたアリエル・リヒトシェイドから元ヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムがダニエルと共に本作のプロデューサーを務めている。サウンドはよりアーシーなアメリカン・ロックに近寄ってきているが、元々の素養があるので、おしゃれで洗練された部分は相変わらず。その上でよりシンプルで直接的なロックが前面に立った感じだ。ダニエルのギター・ソロが聴けるのが嬉しい。#7『 The farm』や#15『Now it’s time』のいかにもヴァンパイア・ウィークエンドなピアノ・フレーズにも顔がほころぶ。
 
本作では長女エスティと三女アラナもリード・ボーカルを取っている。#11『Try to feel my pain』ではダニエルがボーカルで、続く#12『Spinningではアラナ、そして#13『Cry』ではエスティと、それぞれの個人的な体験に基づくと思われる曲がそれぞれのボーカルで歌われ、そのまま三者が交代でボーカルをとる#14『Blood on the street』へ続く流れが最高だ。
 
ハイム独特のリズム感を引き立てている絶妙な言葉の載せ方はダニエル独自のものだと思っていたが、エスティもアラナも抜群の体内時計で言葉をフックさせてくる。さすが音楽一家だ。ダニエルのロックな歌いっぷりに加え、エスティの落ち着いた声、アラナの甘ったるい声もいい味を出しているので、今後もこのスタイルは続けて欲しいなと思う。
 
プロデューサーが変わっただけじゃなく、アルバム・タイトル(I Quit = やめた)に象徴されるような意識の変化もあったようで、アルバム全体に感じる清々しさは今までになかったもの。新しい扉をまた開いたような感じはする。三人の並列感がより際立ったアルバムにもなっていて、彼女たちの物事への向かい方もより明確になったようだ。勿論今回のアルバムからも僕は影響を受けている。
 
 

海へ

ポエトリー:

「海へ」

 

あからさまに物言うことがなくなってきた
ひどいことばに打ちのめされることも
夕焼けは夕闇に吸い込まれ帰るべくして帰る
それが自然なことだと知ったのは
物言わぬ生に気づいたからかもしれない

変わり果てた銘柄の
名のある様式がプラスチックゴミとともに
プカプカと浮かんでいる
その様子を描くことをわたしのパレットはゆるさない

その絵具は誰ひとり不平は言わないけど
ゆるさないこととゆるすことの間に漂う棒切れのような営みを
駆け寄って奪い合うほどの熱意が
今の私にはもうない

ただだからといって素知らぬふりなどできぬ意気地のない身体は
漂うプラスチックゴミと時を同じくして
戯れに点描の彼方を見やることで
己の均衡を保っている

背広の襟がたわむようにして沖へ
もう無理だと先を急ぐ群れにわたしはたったひとりでジャンプする
水飛沫あげる海

 

2025年6月

ポエトリー:

「海」

 

魚の骨が刺さっていた
どこにというわけではないが
おそらく胸元に

魂が代わりたがっていた
少しぐらいいいかと思った

まずは形をどうするかで悩んだ
ここはやはり魚の形だろうか

海を見すえると胸が高鳴った
そんなものだろうか
あげく、山育ちだけど
泳いでみるのもいいと思った

海へ入ると胸の形が感じられた
息をめいっぱい吸って怒られることがないこと
魂は思っていたより軽い

しかし魂には期するものがあった
戻る気配を与えなかった

眺めると何か刺さっているものがあった
これを引っこ抜けばいいのだ

決意させたかったのだきっと
余分な力を抜いて
フレッシュな気持ちになって
決意させたかった

そう知ると涙が溢れてきた
涙は海だった

そうか
そうだったのか

わたしはゆっくりと歩いていった
ひたひたと音がして
足跡が残った

 

2025年6月

節目

ポエトリー:

「節目」

 

行分けされた身体が
包装紙に包まれていた
柄にもなく
ことばを発することは
ためらわれた

生まれて初めての体験に
打ち震えていた
早くひとに伝えたかったが
適切なことばを探すことは
ためらわれた

いつからか
身体は行分けされることを望んだ
言いたいことはなかったが
共感と協調されることを欲した

節目に
身の丈を合わせたい
つまり
ただそれだけだった

腑分けされてもなお褒められたかった
この腸はきれいですね
この肺はすてきですねと

身体が
楽になりたがっていた

 

2025年5月

ポエトリー:

「春」

 

あんなにうちとけたのに
花びらは真っ白なまま行ってしまった
魂は何も起こらないまま
また会えたならと意気地のない

そうこうしている間に
春は過ぎてゆき
夏を迎えるころ
星雲はことばを携える

ときに狼狽し
ときにうる覚えのわたしたちは
実はなにもわかっていない

そこにいたのは春のこと
実をつけ熟すのは
まだ先の話

 

2025年4月

佐野元春&THE COYOTE BAND「45周年アニバーサリーツアー」in 堺 感想

佐野元春&THE COYOTE BAND
「45周年アニバーサリーツアー」
2025年7月13日 フェニーチェ堺
 
 
45周年ツアーが始まった。切りのいい数字なのかどうかよくわからないけど、コヨーテ・バンド結成が20周年だそうなので、それもアリかと妙な納得をしながら会場へ向かった。周年ライブはちょっと苦手。必然的に昔の曲が多くなるからだ。佐野は刺激的な新しい曲を今も生み出しているのに昔の曲でやたら盛り上がるのは勘弁してほしいなとつい思ってしまう。初期からのファンの気持ちは理解するし、今はもうずいぶんと慣れたけど。
 
大阪の会場はフェニーチェ堺という新しいホールだ。割と近いので車で行こうとも思ったが、何が起きるか分からないので電車で行くことにした。思わず開演まで1時間近く早く来てしまったが、既に沢山の人だかりだった。最近の佐野のライブでは若い人の姿もけっこう見かけるようになった。しかしこの日はそうした姿はほとんど見かけなかった。ほぼ初期からのファンと思しき年配者で占められていた。周年ツアーと銘打つとこうなるのだろうか。
 
ライブが始まると、デビューから現在までの映像がステージのスクリーンに映し出された。とても良い演出だった。『再び路上で』、『Sleep』、『フルーツ-夏が来るまでには』がバックに流れたけど、これらはある特定の時期のものなので、全体の流れをそらんじる映像には僕としては合っていないような気はした。佐野のラジオ音声とか、もっと細切れでいろんな音のコラージュにして、映像の時代に合うような音にしてくれたらなとちょっと思った。
 
ライブはツアーに先立ちリリースされたアルバム『HAYABUSA JET I』からの曲がほぼ順序通りに演奏された。当然盛り上がる。僕は2階席の後方だったが、2階席でもざっと10~20%の人が立っていた。近年の佐野のライブでは年齢層もあって、1階席でも座っている人が結構多かったりするが、この日の1階席はほぼ立ち上がっていた。僕の横の人も立ったので僕も流れに乗って立つことはできたのだがそうはしなかった。しなかったというより、正確には後ろの人に気兼ねしてできなかった。
 
映像による演出は本編でも続いた。たとえば『Young Bloods』ではオリジナルのミュージック・ビデオと再録版のビデオがミックスされてカッコよく編集されていた。続く『つまらない大人にはなりたくない』でも同様に凝った映像が流され、僕はそちらをじっと見ていた。けど、ふと気づいた。おれ、ちゃんとステージを見てないやん。。。こういうひと、結構多かったんじゃないか。
 
ライブ全般の映像表現で言うと、それAIで作ったんちゃう、というようなチープな映像もあってイマイチ感はそこそこあり。そうなってくると目にも留めないのだが、1部の『HAYABUSA JET I』パートでは過去曲があるので、当時の映像を交えながらという趣旨が明確で、ファンとしてはついそちらに集中してしまう。せっかくコンサートに来ているのに耳がおろそかになっていた。映像に凝るのはいいけど、こういう落とし穴もあるんだなと思った。あと前回のツアーからだと思うけど歌詞の一部が映し出されるのも僕はあんまし好きではないな。かっこよくない。
 
『HAYABUSA JET I』パートでは『大丈夫と彼女は言った』を楽しみにしていた。再録版ではインディー・ロックなフレーズがあって気に入っていたから。ただライブではバンドらしくダイナミックになり、せっかくのベッドルーム的なニュアンスがこぼれてしまっているように感じた。せっかくだからもうちょっとそっちのベクトルに走ってほしかったかな。その点『欲望』は振り切っていて最高だ。90年代の曲も交え、1時間と少しで1部は終了した。後半までの休憩の間、スクリーンでは45周年を迎えての佐野へのインタビューが流された。肩肘張らない他愛のない映像がとても良かった。
 
後半は『今、何処』アルバムをメインに演奏された。直近のオリジナル・アルバムだから当然と言えば当然だが、アルバムがリリースされた2023年よりも更に困難さが増す世界にあって、このアルバムの曲が披露されるのは自然なことだった。特にギターが前面に現れる『植民地の夜』や『大人のくせに』のラウドなサウンドがより心に響いた。そして最も印象的だったのは『明日への誓い』だった。アルバムをフォローするツアーでも聴いたけど、この日はそこに描かれる情景がより近く感じられた。バーズ・マナーのフォークロックが強調され、ラストにコーラスが入った変化もこの曲の目指すところにとてもよく合っていた。後半では過去曲も含め、割と勢いのある曲が続いた。そして『Someday』が鳴った時、全員が総立ちになった。
 
変な人と思われたかもしれないけど、僕はひとり、『Someday』を座ったまま聴いていた。幾つもの季節を越え年齢を重ねてきた初期からのファンが総立ちになって歌っている。その一斉に立ち上がる姿に感動したのだ。僕自身も勿論一緒に歌ったけど、それよりもむしろ多くの人たちが佐野と一緒に 『Someday』 を歌っている歌声にちゃんと耳を傾けたい、そう思った。そこに肯定すべきものが沢山あったような気がした。
 
本編やアンコールでは80年代の曲もいくつか演奏された。『悲しきレディオ』、『彼女はデリケート』、『So Young』。どれも昔のライブでは定番だったものだ。観客は昔を思い出し楽しんでいたのだろうか。『Sweet16』の頃からファンになった僕も90年代のライブでそれらを聴くのはとても興奮したけど、これらの曲が今の僕の生活にアタックするかと言えばそうではない
 
初期の曲であっても『HAYABUSA JET I』で取り上げられた曲のように今の時代に聴いてもグッとくるものはある。ただ懐かしいだけのような曲はもういいんじゃないか。あの若さに任せたロックンロールが聴きたいなら、若い佐野が躍動するDVDなりYouTubを見ればいいと思う。ライブでは今の佐野が歌う、今の僕たちに響く歌を僕は聴きたい。
 
ライブは20分の休憩を挟みつつも3時間近く行われた。周年ツアーにふさわしく、たくさんの曲が披露され会場は最後まで熱気に包まれた。かくいう僕もなんだかんだ言いながら、目頭が熱くなった瞬間は一度ではないし、楽しんだのは事実だ。『HAYABUSA JET I』は再プレスもされ好評と聞く。このアルバムは旧来のファン向けではなく新しい世代へ向けたものだという佐野の明確な意図がある。けれど、この日の会場を埋め尽くした僕よりも一世代上のファンたちを見て結局この再録アルバムは旧来のファンが懐かしくなって聴いているにすぎないのではないか、新しい世代には届いていないのではないか、そんな危惧が頭から離れなくなってしまった。周年ツアーということで旧来のファンの勢いに負けて、新しい世代はチケットを取れなかっただけならいいのだけど。。。
 
とはいえ、僕は始まりの大阪公演を観たに過ぎない。全国ツアーは27公演(プラス、スペシャル2公演)が始まったばかりだし、フジロックや他のフェスにも出演が決まっている。少しでも多くの新しい聴き手を、今を生きる僕たちの心を揺り動かすものであったら嬉しい。

常備薬を買いに

ポエトリー:

「常備薬を買いに」

 

常備薬を買いに橋の向こうへ
そこはひらがなの多い街

長い橋を渡ると
もう何度も通っているはずなのに、いつも新鮮な恐怖に襲われる

結局、向こうへ渡ってしまえばなんのことはないのたが、長い橋を渡っている間はなにか直近の記憶をすべてさらけ出したような気分になる
つまり最初に訪れたときにはそれまでの人生の経験をすべて開陳したということになるのだが、それももう随分と前のことになるので、まるで覚えていない

覚えていないということは、開陳したことを契機に、それまでの人生の幾つかを橋の向こうへ譲り渡したということにもなるのかもしれないと、そんな疑問がよぎりつつ、わたしは今、何度目かの橋を渡る直前にいる
いつものように不安をのぞかせながら

常備薬が必要なことはわかっている
処方箋を持ってきていることは確信している
しかしすでに幾つかを忘れてしまっている気もしている

悪い気はしなかった
このままわたしの心と体はどこへ行くのだろう
ひらがなの多い街は居心地がよかった

 

2025年5月