Tag: Flipper’s Guitar
SENSUOUS / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『SENSUOUS』(2006年)コーネリアス Cornelius
このアルバムをリビングで聴いていたら、娘に「BGMやん」て言われてしまった。確かにそうかもしれない。でも音楽なんてそういうもんじゃないかとも思う。電車に乗ってると多くの人がイヤホンを付けているけど、スマホでは別の画面を見ているし、さして真剣に聴いているようには思えない。けれど僕も含め、けっこう多くの人が音楽無しではいられない。
僕は主に洋楽を聴く。ほぼ英語は解さない。対訳のついた国内盤CDを買うこともあるが、基本はサブスクが多い。もちろん歌っている内容を知ることでその音楽がもっと好きになることはあるが、それがなくても好きな音楽はたくさんある。多分僕の中で歌詞はそれほど多くを占めていないのかもしれない。部分的な英語しか分からなくてもボーカリストの声やトーン、バンドの演奏、メロディ、和音、そうしたものが一体となってあちこちから色んなタイミングで飛び込んでくる。それらひっくるめた連なりを僕なりに感知し楽しんでいるのだと思う。
電車の中でリラックスして聴いている多くの人もそうなんじゃないか。耳から色んな音が入ってきて感知出来たり出来なかったり。それでもこの音楽は好き、これはあんまり、というものは出てくるし、なんだっていいわけじゃない。それぞれの感性に従って、人は音楽を聴いている。分かる分からないといった意味よりも遥かに多く伝わっているものがあるのだ。
言葉で何か言ったってたかが知れているよ。僕は自分の考えなんて開陳するつもりはないし、お説教するつもりもない。コーネリアスはそんなこと言わないだろうけど、ま、そういうことだと思う。音楽なんてただの’振動’。でもその’振動’に人の心は揺れ動く。ただの’振動’に作家は心血を注ぐ。最後に心温まるシナトラのカバーを英詞のまま、しかも声にエフェクトをかけて歌うところが素敵だ。
コーネリアス 夢中夢 Tour 2023 Zepp Namba 感想
ライブ・レビュー:
Cornelius 夢中夢 Tour 2023 Zepp Namba 10月6日
僕は絵も好きだし、詩も好きだし、いろいろ見たり聞いたりしていると時に圧倒的な作品に出会って不思議な気持ちになることがある。コーネリアスのライブもそんな感じだった。煽るわけでもなく、大袈裟にするわけでもなく、平熱なのにこちらに伝わる何か。音楽を通して、いや、映像も照明も素晴らしいかった。それら音楽表現でやれることは全部やるんだという静かな熱があった。音楽の、いや何かを表現するとはこういうことなのだということをその一点に絞って見せてくれた。そんなライブだった。
ステージでの4人は小山田が真ん中にいるのではなく、4人が均等に並んで客席を向いている様子が素敵。余計なものに頼らず表現する潔さ。クールに、でも身体の奥に何かをたたえたまま、真っすぐ前を見据える。バンドとしてのエネルギーが放射されていた。僕はコーネリアスはバンドなんだということを知った。
音源もいいけど、ライブはまた別世界。全く違った。僕は体全体で感じていた。気安く感情に頼らずに音楽全体として表現し、映像表現を含めた音楽全体として聴き手に委ねる。気持ちのいいことを手っ取り早く歌って満足するようなまやかしではなく、表現行為に最初から最後まで真摯に向き合い、準備し、それを果たしていく。偉ぶるのでもなく控えめ過ぎるのでもなく、虚勢を張るのでもなく謙虚過ぎるのでもなく、出来得る限りの能力を使って表現する。
情緒に頼らず、真摯に向き合う姿勢の中から伝わるもの。それが聴き手の心を揺さぶるのだろう。表現するとはどういうことか。その真っ直ぐさに触れ、僕は胸がいっぱいになった。
本編で喋ることは一切なかったけど、アンコール最後の曲の間奏で小山田圭吾は口を開いた。「いろいろあったけど、またこうして演奏できてうれしいです。今日はどうもありがとうございました。」。朴訥に、静かな歌声と同じトーンでそう話した。
POINT / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『POINT』(2001年)コーネリアス Cornelius
日本だと割とリリックについての言及が大きくなりがちだが、音楽においてリリックは構成要素のひとつに過ぎない。一見当たり前に見えるこの認識を当たり前に進めたのがこのアルバム。言葉もサウンドもメロディも声も並列。歌詞やそれを発するボーカリストの声という分かりやすい記名性に寄りかからず、ていうか排除し、音楽としての表現に真正面から取り組んだ、ズルさのない正々堂々としたアルバムだ。
よってここでは、声も楽器も鳥の声も波しぶきも虫の音もすべて等しく扱われている。どれに対しても特別扱いはしない。その上で、僕たちが日ごろ楽しむポップ・ミュージックができるのか、という取組なのだと思う。自然、インストルメンタルが多くなる。いや、それは認識間違い。そもそも前述の前提である故、作家はインスト云々というところで作っていないはず。並列に進めた結果こうなったに過ぎないと。
そもそも小山田圭吾には、ポップ音楽などとうにネタは出尽くしていて、後はそれをどう組み合わせるかという達観があったはず。だったらばどうするか、というところに自覚的にラジカルに推し進めていたのがフリッパーズでありコーネリアス初期の作品であるならば、このアルバムは、だったら新しいの作ってやるよ、とでも言うような、いやそこまで肩肘は張っていないけど、それまでのともすればシニカルな態度は一旦置いといて、自身の新しい表現に向けて次のステップに進んだアルバムなんだと思う。
これまでに例のない取組である以上、聴き手としても面食らうところがしばしばあるわけだけど、とかなんとか言いながらお高くとまった感は一切なく、チャーミングでポップになってしまうところはもう小山田の天性だろう。どんなアルバムになってもギターがカッコいいのが嬉しい。これまでにないわけだから完成がない。ということでこの流れは次作へも続く。
FANTASMA / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『FANTASMA』(1997年)コーネリアス Cornelius
ソロ・デビュー作『『The First Question Award』(1994年)での過剰な言葉や2nd『69/96』(1995年)での過剰なサウンドでコーネリアスが試していたことは、結局どこをどう表現すれば何がどれだけ表現されるかの確認であり、それを見極めるにはその分野で目一杯メーターを振ってみるしかなかった。その上で一応はたどり着いた答えは、結局のところ何か一つの切っ先をいくら鋭利に研いでみせようとも何か一つでやり切れることはたかがしれているということではなかったか。
しかし考えてみれば、フリッパーズ時代から意味なんてなく、彼はスカスカの箱を用意していただけで、そこに僕たちは勝手に意味を見出していただけ。ただその箱があまりにもキラキラとしていたものだから、僕たちは随分とその気になってしまったわけだけど、その素敵な箱は逆に言うとフィクションだからこその輝きだとも言える。
音楽に限らず、フィクションにどれだけリアリティーをぶち込めるかが作家の腕の見せ所でもあるわけだけど、このことは自分のことを云々するよりもはるかに難しい。自分のことを垂れ流しては僕のメッセージですだなんて言う人もいるが、それなら誰だってできることで、創作とはやはりないものから何かを創り上げる、あるいは内的なものを外的なものに変換することではないだろうか。
それにその外的なものが既にあるなら、わざわざ創ることはないだろうし、そもそもリンゴがどれひとつとて同じではないように、どんなものでも同じものは存在しない。例えて言うと、このアルバムには誰もが知るメリーゴーランドや誰もが知る観覧車はないし、誰もが知るポップ音楽からは外れたようなヘンテコな乗り物ばかりではあるけれど、作者が真摯であればあるほどそうなってくるのはごく自然なことで、僕たちは初めての乗り物になんだこれと驚いたり目を丸くしながら楽しめばいいのだ。つまりここでもコーネリアスは場を用意しているだけ。
多分ここまでがフリッパーズ・ギターでスタートした彼の初速。ソロ1stが1994年、2ndが1995年、3rdが1997年と目一杯のスピードで走り続け、いろいろなことを試しに試した結果は始めから分かっていたことかもしれないが、実践することでより強固になった。
The First Question Award / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『The First Question Award』(1994年)コーネリアス Cornelius
一足先にリリースされた小沢健二のソロ1作目が大絶賛されていた状況は、小山田圭吾にとって相当なプレッシャーであったろうと想像する。フリッパーズ・ギターが小山田と小沢の共同作業であったことは周知のことだとはいえ、ボーカリストが小山田であった以上、小山田にそれ相当の期待が背負わされてしまうのは仕方がないところではあった。
当時、何かの雑誌で小山田のインタビュー記事を初めて読んだ僕は、想像とは違った偉そうでいきがった彼の受け答えに面食らってしまったわけだが、それは後年、彼自身がフリッパーズ解散後は不安で不安でしかたなかったと語っているように、あの時期は虚勢を張るしか自分を守る術はなかったのかもしれない。
そんな精神状態で作られた小山田圭吾改め、コーネリアスのデビュー作は恐ろしくハイパーで強烈なポップさと陽性に満ち満ちている。フリッパーズ時代の作詞は小沢が担当していたにもかかわらず、これだけの言葉数でまくしたてる小山田は一種の躁状態にあったのかもしれない。その洪水のような言葉をフリッパーズぽさを求めるファンが引くぐらいのフリッパーズぽさで’やり過ぎている’のはそうせざるを得なかったとも言えるし、小山田のやけくそも半分あったようにも思う。
が、言い換えれば、小山田の手のひらには未だそれだけのものが残っていたし、その残り物を総ざらいし、束にしたマッチ棒のように火をつけ一瞬で終わらせる作業はいずれにせよ必要であった。このアルバムはどうせならと華々しく打ち上げられた花火だったのかもしれない。しかしその総ざらいは恐ろしく練度が高い。
なんだかんだ言いながら、キレキレの小山田がここにいる。アルバム1枚を通して聴くには聴く方にもエネルギーが必要だ。
Mellow Waves / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『Mellow Waves』(2017年)コーネリアス Cornelius
コーネリアスは自己主張をぶつけたいとか誰かに言いたいことがあるとかそういう部分とは無縁のような、そんなこと他人に言ったってしょうがないでしょう的なある意味当たり前の前提で音楽を作っているような気はするのだが、出てくる音楽というのは非常にエモーショナル。つまりそれは言葉に頼るのではなく、音楽全体として表現しているからで、分かりやすく言うと音の一つ一つがメッセージなのである。
ただそのメッセージは我々が期待するような具体的な何かということではないし、むしろ聴き手に対しても何か特定の理解を求めるのではなく、音楽というものが複合芸術である以上、その表現するところも複合的なもの、そこのニュアンスを嗅ぎとればいいじゃないかというのが聴き方として程よいのかも。聴き手の方が勘違いしやすいけど、明確な意味を求めるのであれば、論文なり解説書なりを読めばよいわけで。
例えばこの時コーネリアスはEテレで『デザインあ』なる番組を手掛けていて、向かい方としては尚のこと言葉による表現に特化したものから離れているだろうし、アルバム後半の曲は特に、#6『Helix / Spiral』とか#7『Mellow Yellow Feel』とかのヘンテコさはそのままEテレの不思議な番組で流れていそうないろいろ感がある。#9『The Rain Song』なんかもうそのまま。
そうやって表現される細々見るとよくわからないけどいろいろな何かの塊は、聴き手にじんわりと押し寄せて僕たちの中で確実に広がっていく。それはとてもエモーショナルで雄弁で温かい。誤解されがちだが、コーネリアスの音楽は分かる人にだけ分かればいいというような一方的なものではなく、聴き手がいてはじめて成立するし、小山田圭吾は多分それを信じている。
夢中夢 / コーネリアス 感想レビュー
邦楽レビュー:
『夢中夢 – Dream In Dream』(2023年)コーネリアス Cornelius
高校時代はフリッパーズ・ギターをよく聴いていた。彼らは3人称の歌、彼彼女の歌を歌っていた。当時の僕に自覚はなかったろうけど、どうやら僕は3人称で歌われる誰かの物語を聴くのが好きだった。逆に作者自身の熱い思いを歌われるのは苦手だった。フリッパーズ・ギターが解散した時、僕は小山田圭吾の新しい活動を待ちわびた。そしてコーネリアスとしての第一弾シングル『太陽は僕の敵』がリリースされた。
小山田の声に飢餓感を感じていた僕はその新曲とほどなくリリースされた1stアルバム『First Question Award』をむさぼるように聴いた。しかし急速にその熱は冷めていく。何故ならコーネリアスとなった小山田の歌には僕が僕がという強い自己主張があったから。そこにはフリッパーズ・ギターで作った(作詞は小沢健二だったが)サリンジャーのような美しい誰かの物語はなかった。
以来、コーネリアスの音楽は聴いていなかった。コーネリアスは2nd以降、野心的な取り組みで世界的にも著名なミュージシャンになったのは知っている。しかし一旦距離を感じてしまった僕は改めてコーネリアスの音楽に手を伸ばすことはなかった。ところが唐突にコーネリアスは、というか小山田圭吾は時の人となる。かつて彼の音楽に心を奪われた人間として僕はその顛末を知りたかった。そして僕の中である程度の結論が出た。それは肯定的なものだった。むしろあれほど天才だと思っていた小山田圭吾に僕は勝手に親近感を感じ始めていた(勿論、そうでない部分もあるが)。そしてアルバム『夢中夢』がリリースされた。
このアルバムは彼にしては珍しく、シンガーソングライター的な手法で作られたと言う。つまり自分のことを歌っている。そこにはかつてのような息苦しさはなく、まるで他人事のようなおだやかな歌声があった。ただ歌と言っても全10曲のうち、3曲はボーカルが無いインストルメンタル。しかしこれは歌のアルバムと言いたい。なぜならボーカルの無い曲にも声が溶けているから。
ここではボーカルと楽器とサウンドに継ぎ目がないまま全体として響いている。曲を構成する楽器のように小山田は歌い、やがてその声はメロディやサウンドの中に溶けていく。するとインストルメンタルと思えた曲も実は小山田の声が溶けていった後なのではないかと感じるようになる。きっと言葉や声は見えないだけでそこにあるのだと。
シンガーソングライター的な手法で作られたこのアルバムには多かれ少なかれ小山田個人の内省、或いは思いが入っている。しかし彼は言葉のみで何かを言おうとしていない。言葉に重きを置いていると言葉は強くなる。けれど彼の音楽にその必要はない。音楽表現とは言葉やメロディやサウンドが溶け合ったうえで、全体として聴き手が感じるものにあるのだから。
僕たちは何気なく街を歩くときでさえ歩くだけではない。いろいろなことを脈絡なく考え、自動車の音や風の音、人の話し声、様々なことが同時に起きている中、手足を動かしている。表現もそれらすべてをひっくるめたものであるならば、なにか一つに答えを求めることもない。聴き手は自由に感じればいいし、言葉でなんか説明できなくても感じればそれでいいのだ。