Fetch the Bolt Cutters/Fiona Apple 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
「Fetch the Bolt Cutters」(2020)Fiona Apple
(フィッチ・ザ・ボルト・カッターズ/フィオナ・アップル)
 
 
心に(或いは頭に)浮かんだものをそのまま表現出来ればよいのだが、形がないものを目に見える形に変換することはそう容易なことではない。それができるのが芸術家ということかもしれないが、芸術家だって思いのままを表現できるなんてことは稀であろう
 
試行錯誤なんていうけれど、実際はバッと書いたもん勝ちというか、頭からケツまで一気に出来てしまうのが一番強い。先日、棟方志功の映像を見たけどあれが芸術家ってもんだ。推敲すればするほど当初の感覚が薄れ、ダメな方へ向かうのでは思うのは僕が素人だからか。
 
ただ棟方志功だっていつもスッパリ出来てしまうというわけにはいかないだろうし、わけ分かんなくなって途中でやめた、なんてことがあるかもしれない。音楽界で言えば、天才の名をほしいままにしてきたフィオナ・アップルにしても作品ごとのインターバルがやたら長いのはその証左であろうし、逆に言えば満足できるものでなければ世に出さないという、これも芸術家としての態度。
 
今コロナ禍にあって大きなプロジェクトが組めない中、それぞれがリモートや宅録で作品をリリースしている。面白いのはそのどれもが最も大事な生な感情を出来るだけ簡素にパッケージしたようなシンプルなサウンドになっていること。そうなってしまったというニュアンスが強いのかもしれないが、あの手この手が入らず、初期衝動から最も距離が短い方がより本質を伝えることが出来るのは当然といや当然。
 
しかしフィオナ・アップルの『フィッチ・ザ・ボルト・カッターズ』はそうなる前からそのように作られた作品として明らかに毛色が異なる。そうなったのではなく、そうしたくてそうしたという意味合いは大きい。これはいかにすれば初期衝動を最短距離で(若しくはそのまま)パッケージできるかを突き詰め、尚且つそれを表現しうる技量を持ち合わせているフィオナが自らの意思で作り上げたフィオナ主導の作品だ。
 
心に(頭に)浮かんだものを出来るだけ形を損ねずに作品として変換させることは容易ではない。技量やセンスだけでなく、既存の表現に引っ張られることだってある。そこから如何に自由になるか。言ってみればそこが腕の見せ所だろう。
 
この作品はフィオナの中にある芸術衝動が出来るだけ形を損ねずに表出され、けれどそれが聴いてワクワクするような音の塊に翻訳されたフィオナ独自の大衆音楽である。