われはロボット/アイザック・アシモフ 感想

ブックレビュー:

『われはロボット』  アイザック・アシモフ

あなたが星新一からアシモフを紹介してくれたように、私はアシモフから手塚治虫を連想しました。
生命とは、生物学的に言えば、動物とか植物、微生物なんかもそう。もちろん人間も。
でも全ての生物に心があるとは限らず、人間といえども残虐でひどい人もいたりして。
逆に犬にだって花にだって、そしてロボットにだって、見方によっては暖かい生命がある、つまりは心があるということです。
アシモフも手塚治虫もそんな見方をしている人なんじゃないでしょうか。
心があるから思い通りにならない。
そこに物語が生まれるのです。
あなたにも心当たりがあるでしょう?

シーモア 序章/J・D・サリンジャー 感想

ブックレビュー:

『シーモア 序章』  J・D・サリンジャー

グラース家について、重要人物である長兄シーモアについての物語。といっても次兄バディの一人語りによるもので、シーモア自身は登場しない。グラース家の兄弟に愛されたシーモアとは一体どのような人物だったのかがバディの目を通して描かれている。

しかし内容は難解。意味があるのか無いのかよく分からない文章が続き、筋立てはあってないようなもの。しかしこうした従来の文体とはかけ離れた手法でしか、作者は愛すべき人物を描写できなかったのだ。

当たり前のことだが人類が生まれてこの方、同じ人は一人もいない。しかし、そのただ一人の人について話そうとすれば、我々は‘我々の言葉’を使わざるを得ず、すなわちそれは‘みんなが知ってる言葉’でしかない。しかし‘みんなが知っている言葉’は、言い換えれば‘~のようなもの’でしかなく、人類史上初めての人を言い表すには適さない。だからバディは新たな言葉で言い表そうとする。それがここにある人類史上誰も聞いたことのない言葉、意味があるのか無いのかよく分からない言葉になるのである。

物事をありのまま伝えようとすれば、表現はますます抽象的になってゆく。今ある言葉だけでは言い切れない。彼のやさしさは彼だけのものであって、彼の首の傾げ方やつまづき方だって彼だけのものなのだから。

作者はそれを丁寧にすくいあげてゆく。愛するひとを語るのだから当然だ。そしてそれは作者自身の聖なる場所でもあるのだから。作者がそれを書く行為は、大切な何かが知らぬ間に消えてしまわぬよう、しっかりと握っておくためだったのかもしれない。

 

フラニーとゾーイー/J・D・サリンジャー 感想

ブックレビュー:

『フラニーとゾーイー』  J・D・サリンジャー

サリンジャーの短編の中には「グラース家」にまつわるストーリーが幾つかあって、本編もそのうちのひとつ。7人兄弟の末妹のフラニ―とその上の兄、ゾーイーの物語である。元々別個に書かれたもの(『フラニ―』の2年後に『ゾーイー』が書かれたとのこと)だが、2作まとめて単行本にまとめられたのはごく自然なこと。まず、恋人と最悪な1日を過ごしたフラニ―の物語があって(『フラニ―』)、彼女が家に帰ってきた数日後の物語が『ゾーイー』となる。ちなみに、この切り替えが素晴らしい。「バタンッ!」と扉を閉める音が聞こえてくるようで、ひと言で言えばすごく洗練されている。

『フラニー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟。その中でもとりわけナイーブな大学生フラニ―は、周りのひと達が嫌で仕方がない。エゴが過ぎるというのだ。しまいにはそうした誰かを責めずにはいられなくなり、その矛先は恋人レーンにも向けられる。彼の愛を知ってはいても彼女にはそれを止められない。また、そうした自分にも嫌気がさし強烈な自己嫌悪。折角の週末を台無しにしてしまった彼女は意識朦朧、最後には気絶してしまう。

ここでのレーンは責められない。確かに適度にオシャレで適度に自意識過剰な彼はいけ好かない奴だが、誰だって人並み以上に自意識過剰だった頃はあったはず。自分の書いた論文をひけらかすぐらいはかわいいものだ。
そうしたレーンについつい反論してしまうフラニ―もまた非難されるものではない。だって彼女は彼を傷つけまいと必死なのだ。そのことにレーンは気付けるくらいの聡明さは持ってるし、それを自分のせいだと責めてしまうフラニーのナイーブさだって誰にも思い当たる節はあるのではないか。
お互いを気遣いつつも、相容れない二人の会話における、聖なるものと現実との揺れ動きが、手に取るようなリアルさで描かれている。余計な装飾なしに、ありのままの二人が見える見事な描写だ。短いが、僕はとても好きな作品。

『ゾーイー』:
多分に感受性豊かなグラース家の兄弟だが、母ベシーは至って現実的。食事もしないでふさぎ込むフラニーを心配しつつもどこかマイペースなのがいい。そこでゾーイーが何とか彼女を元気づけようとするのがこの物語の骨子だ。しかし単に元気づけようというのとはちょっと違う。余人には理解しがたいシニカルで饒舌なゾーイーは彼のやり方でそれを実践してゆくのだ。

この物語のクライマックスは最後にゾーイーが物事の真実をフラニーに語るところ。「目の前に出されたチキン・スープも見えないようでは、何も見えていないのと同じ」と語るあたりからである。そして圧巻は「太っちょおばさん」のくだり。ここで物語は一気に加速度を増す。
ここにあるのは愛。誰もが傷つきながらも相手を想う愛だ。そしてそれを心情に依りかかった情緒的な表現ではなくて、まっすぐにそしてユーモア持って迫る。一周回ってまた戻ってきたかのようなシンプルさが胸に突き刺さる。

サリンジャーはきっと詩人だ。手元には何百編の詩が携えられているはずだ。しかし彼はそれを一編たりとも外部には漏らしていない。きっと、晩年それを処分したんだと僕は思う。でないと彼の文章から漂うポエジーは説明がつかない。どちらも愛に溢れた素晴らしい作品だ。

キリンの子/鳥居 感想

ブックレビュー:

『キリンの子』 鳥居

書くことは苛酷な記憶を辿る行為となるかもしれないけれど、それはそれとして存在しつつも一方で、鳥居さんは言葉を紡ぐ行為自体がただ楽しかったのではないかと思います。絶望だけではなく、命の輝きとか命の尊さが見え隠れするのは、きっとそういうことなのではないかと。鳥居さんの歌は死んでいない。ちゃんと生きている。掴んで離さない命が地中深く根付いている。そんな気がしました。

いい詩とは、最後に離陸する詩だと、詩人の茨木のり子さんは言っています。鳥居さんの歌もイメージの飛躍が素晴らしいと思いました(例えば、「水たまりをまたいで夏が終わる」とか)。

解説にもあったけど、冷静な観察眼も特筆すべきことだと思います。「母が死体になる」も「みょうが46パック」も彼女の目線は同じです。温度が変わらない。湿度がありません。歌が心のありようを詠むものだとしたら、大抵はそこに何らかの気分は入れたくなるものだけど、彼女は正確に描写をするだけ。けれどちゃんと作者にも読み手にも立ち上がる言葉。言ってみれば正岡子規の言う写実ということになるのだろうけど、これはやろうと思ってもなかなか出来るものではなくて、才能もあるけれど、本人がそうすべきだと自覚しているからだと思います。

この短歌集は何度も読み返したくなります。それは読むたびに新しい発見があるのを知っているから。僕は短歌のマナーや技術的な良し悪しは分からないけれど、彼女のバックボーンに依らずとも、純粋に素晴らしい短歌集だと思いました。