フィルム・レビュー:
『すばらしき世界』(2021年)
フィルム・レビュー:
『すばらしき世界』(2021年)
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『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その2
※以下、ネタバレありですのでご注意ください。
前回の投稿では感想と言いながらちょっと映画とはかけ離れてしまった感かあるのでここで改めて。というよりやっぱり思うところが沢山出てくる映画でなんです、なんか気づいたら考えてるっていう。だから『すばらしき世界』というタイトルはホント奥行きのあるタイトルだなと、原作は『身分帳』という小説なんですけど(早速、買いました)、よくぞこのタイトルに変えたなぁと思います。
映画は人生の大半を少年院や刑務所で過ごした男が社会に復帰するもののうまく馴染めないというところを人と人との関係においてどうなっていくのかというのが主なストーリーにはなっているんですが、男の苦悩が合わせ鏡のように僕たちに返ってくるんですね。つまり主人公は弱いものが責められているのをほっとけないし、間違ったことを見過ごすことは出来ない。一方僕たちはホントは正しいと思えることでもそ知らぬフリをしたり、えっ、気づかなかった、みたいなズルい生き方をしていることが往々にしてある。もちろん正義のつもりでも相手を半殺しにする主人公はよくない。でもお前はどうなんだって。
映画のラスト近くで主人公は介護施設に職を見つける。そこで若い同僚が同じく同僚の障害者をあいつはホントに出来ねぇと言ってイヤなものまねをするんです。で映画を観ている僕は思うわけです。以前と比べて世間と折り合いを付けれるようになった主人公はこれまでのような暴力ではなく、違うやり方で若い同僚を戒めるはずだって、いや戒めて欲しいと。でもそれって勝手な話ですよね。主人公に対して散々世間ともう少しうまくやりなさいと言い続けてきたくせに、いざとなりゃ自分のことは棚に上げ、主人公に本来の正義感を発揮していさめて欲しい、ギャフンと言わせて欲しいと願う。なんて勝手な話だと思う。そういう風にして色々なことが観ているこっちにそのまんま返ってくる、そんな映画だと思います。
2018年度の犯罪白書によると、2017年の検挙者のうち再犯者は48.7%。受刑者の約半数が再犯者になっています。加えて2017年の再犯者の72.2%が逮捕時には無職でした。しかし何も好き好んで無職になったわけでありません。僕たちの側(と言ってしまうこともどうかと思いますが)にも大きな問題があるのです。
介護施設で働く主人公は素性を隠して生きています。自分に嘘がつけない主人公が自分に嘘をついて生きている。本来であれはちゃんと刑期を終えたわけですから元受刑者であったことを隠さなくてもよいわけです。けれど隠さざるを得ない。映画のクライマックスで主人公は同僚の障害者から花をプレゼントしてもらいます。その瞬間、二人は裸の魂の交感をする。その刹那、主人公は恐らく同じものを相手に見たんですね。とてもエモーショナルで美しい場面でした。
主人公は自分に嘘が付けない。一方僕たちは毎日小さな嘘をついている。主人公は心の声に従い暴力を用いてそれを正そうとする。それは良くない。けれど僕たちは見なかったフリをしてその場を立ち去る。何が正しくて何が間違っているのか。だんだん分からなくなってくる。でもそれは簡単に答えが出せるものではないし、むしろ答えなどないのかもしれない。『すばらしき世界』とはなんなのか。正しさとはなんなのか。これは観たものにそんな問いを残し続ける映画なんだと思います。
最後に、役所広司さんをはじめ皆さん本当に素晴らしいかったです。役所広司ではなく三上さんがそこにいました。主要人物だけでなく、街のチンピラやソープ嬢といった少ししか登場しない人たちにも本当にそこにいるようなリアリティーがありました。素晴らしい作品です。映画館で観て本当によかったと思います。
フィルム・レビュー:
『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その1
映画を観た後、友達と会う約束をしていて、コロナだからホント久しぶりで、その時にまぁ久しぶりだからか随分と真面目な話もしたんですけど、その時の話の流れで、僕には小学生時代からの友人がいて、もう色々と知った仲ではあるんだけど、そういう人たちとも何かのきっかけでもう二度と会わなくなるなんてこともあり得るんだという話をしまして。もちろん大切だし彼らがいなくなったら僕は声をあげて泣くかもしれないけど、人と人との間というのは何が起きるか分からないし、だからと言って人と人との関係に絶望している訳ではないし諦めている訳ではないし、そこは信じている、ただそういうこともひっくるめて人間関係なんじゃないかなというような話をしたんです。
映画は最後に思いがけない終わり方をして、終わり方が思いがけないというのもあって、映画のタイトル『すばらしき世界』が僕には大きな壁として立ち上がったんです。で、映画を観終わった後もずっとあのタイトルはどういう意味だったんだろうと考えていました。それでその後友達とたまたまそういう話をして、その時はもちろん映画のことなどすっかり忘れていたんですけど、今になってあぁそうか、『すばらしき世界』というのはそういうことも含まれているのかもしれないなって、不思議となんか繋がったんです。
また一人の帰り道。これも唐突な話ですけど、何年か前に樹木希林さんが日曜美術館で、その時の回は北大路魯山人の話だったんですけど、魯山人には彼のことを理解してしくれる人がいた、で、司会者は樹木さんに「樹木さんには分かり合えるひとはいますか」というような質問をしたんです。その時に樹木さんは「人に期待してもらっては困ります」なんて返したんですね。当時僕はそれを聞いて涙が出そうになったんですけど、そのことを帰り道で不意に思い出した。樹木さんも恐らく人に対してたかを括ったり諦めていたということではないと思うんです。樹木さんは愛情をこめてそれを仰った。だからこそ僕は胸が熱くなったんだと思います。そこもなんかこの映画から呼び起こされた記憶なのかなっていう気がしています。
グランド・ブダペスト・ホテル (2014年) 感想レビュー
一人の女性が墓地を通り過ぎ、
あらすじです。1930年代、
先ほど述べた冒頭のシーンに戻ります。本の裏表紙には作家の写真(※
と、ここまでで、この映画は二重三重の入れ子構造になっていていることに気づく。
その映像は特徴的でウェス・アンダーソン監督は正面、真後ろ、
映画はシュールでドタバタなブラック・コメディとして楽しめる。
映画は「Inspired by the writings of STEFAN ZWEIG」という言葉で締めくくられます。シュテファン・
ところが時代はファシズムの影が徐々に忍び寄る、
映画は基本的にはコミカルにテンポよく進んでいくが(グロテスク
フイルム・レビュー:
「カセットテープ・ダイアリーズ」(2020年)感想レビュー
「カセットテープ・ダイアリーズ」を観ました。先ずは久しぶりの映画館、僕は平日の朝イチの回を見に行きまして、予想通り人はまばら、ていうかほぼ空席でした(笑)。ま、この時期ですから、みんな外に出るのを控えてるんだと思います。とはいえ映画館ではマスクをして大人しくしているわけですから、朝晩の通勤電車に比べればよほど安全ではないかなと(笑)。なんにしてもやっぱり映画館で観るのはいいですね。しかも僕にとっても特別な人、ブルース・スプリングスティーンを題材にした映画ですから尚のこと素晴らしい時間となりました。ありがたや、ありがたや。
映画の主人公ジャビドと同じく多感な頃にブルースの音楽に出会った身としては、もう涙腺緩みっぱなしでした。ブルースのあの声とE ストリート・バンドの演奏と、そしてジャビドを奮い立たせるかのように視覚化されたリリック、僕は40後半ですけど、もう年齢は関係ないです。よい音楽というのは時代を越えてしまうものなのです。
そしてこのことは僕にとっても新しい発見でした。ブルースの歌は今の僕にとっても有効であると。あの頃心を震わせた音楽というのは単なるノスタルジーではなく現在進行形でもあるのだということ。やっぱりブルース・スプリングスティーンの歌は成長の歌なんですね。
と随分映画の本題からは離れてしまいましたが、ジャビドはブルースの音楽を聴いて音楽がただの音楽ではなくなります。印象的なシーンはカセットテープをセットするところ。ジャビドはポータブル・テープレコーダー(ウォークマンって言っていいのかな)をベルトの腰の辺りに装着していて、真正面のバックルの位置ではないのですけど、そこにカセットテープをガシャっと押し込むんですね。すると気持ちに変化が起きる。ブルースの歌の力が装填されるんです。言ってみれば変身ベルトです。てことで仮面ライダー(笑)。ほら、平成ライダーはベルトにUSBとかカプセルとか差し込みますからね、僕はまさにあれを思い出しました。
そうやって、ジャビドはブルースの力を借りて変身をする。だから映画の序盤から中盤にかけてはジャビドがカセットを装填するシーンが沢山出てきます。好きな子に告白する時なんかまさにそう。ブルースの言葉を借りて力に変えていくのです。
それが中盤から最後にかけては少し様子が違ってきます。徐々にジャビド自身に変化が起きてくるのです。それがはっきりと分かるのはスピーチのシーン。ここに至ってはもうブルースのカセットを装填する必要はないんですね。ジャビドはブルースの言葉を借りることなくジャビド自身の言葉で話します。彼は単なる憧れからブルースをきっかけに自分を変えていくんです。翻って僕はどうだろうか。単なる憧れで終えてしまってないだろうか。やっぱり好きなら尚のこと憧れで終わりたくない。そんなことを思いました。ジャビドを見て大事なことを学べたような気がします。
この映画にはジャビド以外にも魅力的な人物が沢山登場します。ジャビドの家族、お父さんだけではなくお母さんや姉妹たちとのエピソードも心に残ります。ガールフレンドや学校の先生、カッコいいですよね。そんな中、特に印象的だったのはジャビドの親友、マットとループスです。
映画はジャビドとマットの子供時代から始まるんですね。小高い丘で二人は永遠の友情を誓います。そうですね、映画では激しいレイシズムもそこかしこに描かれています。パキスタン移民であるジャビドたちは随分とつらい目に合う。けれどマットはそんなことは気にしない。すごくシンプルにジャビドは友達なんです。で途中、ジャビドとマットが仲違いをする場面がある。けれどここで原因を作るのはジャビドの方だし、最後の方で夢に向かって順調に歩み出すジャビドに対し嫉妬とか距離を置くとかもなく、子供時代と変わらずずっとマットは同じトーンなんですね。なんかマット、素敵だなって思いました。あと関係ないけどマット、ピート・ドハーティにそっくりや(笑)。
そしてループス。ジャビドと同じパキスタン移民の彼がジャビドにブルースの存在を教えることになります。だからループスはジャビドにとって運命の人でもあるわけですが、例えば僕も十代の多感な頃にブルース・スプリングスティーンを知りました。それは雑誌だったんですけど、その文面というか紙面は今でもちゃんと覚えています。レンタルCD屋でブルースのCDを探している時のことも。大切な何かを知ったとき、出会ったとき、そこには必ずきっかけがあると思います。だからループスというのはそのメタファーというか、自分と大切な何かを結びつけた象徴でもあるわけです。
いつも変わらない非常にリアルな存在のマットと、放送室に忍び込んだり街中で一緒に歌い踊るファンタジーなループス、もちろんエンドロールに登場したようにループスも実在の人物なのですが、イメージとしてはユージュアルなマットとアンユージュアルなループスという対極にある人間関係がジャビドには存在したというのも大きな要素であったような気はします。
そして最後の場面。ジャビドが助手席に父親を乗せて旅立ちます。ここでかかるのが「Born To Run」。始めに言ったように僕はブルースの曲が流れると条件反射的にウルウルしちゃったんですけど、ここではそうはならなかったんですね。すごく清々しい気分で「Born To Run」を聴けた。それはブルースの映画だということで幾分興奮していた僕が劇中のジャビドと同じように曲に対して、ブルースに対してちゃんと距離が取れていったということだと思います。そしてジャビドと父親の乗る車が俯瞰で描かれます。ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードですよね。そして丘の上の見知らぬ少年のカットになる。ここですよね、バトンが繋がっていくという。
最初にも言いましたが、この映画で描かれるブルース・スプリングスティーンの音楽は単なるノスタルジーではないんですね。ここはすごく大事なところ、グリンダ・チャーダ監督の思いなんだとを思います。いろいろな出来事があってジャビドは旅立つ。ジャビドには過去があって今があって未だ見ぬ未来がある。そして丘の上に立つ少年もまたそうなんだと。更にはそれだけではない。助手席に座る父親だってそして映画を観ている僕たちにも過去があって今があって未来がある。この場面から僕はそんなメッセージを受け取ったような気がしました。
ジャビドが特別な経験をしたのは音楽でしたけど似たような経験、誰しもあると思います。音楽でなくても文学であったり映画であったり。そうではなく実際の人との出会いがそうだったかもしれないし、具体的な何かの体験がそうだったかもしれない。人にはきっと多かれ少なかれそうした経験があるのだと思います。
でも時が経ち、あの気付きは、あれは若気の至り、勘違いだったのかもしれないと思うときがある。あれは目が眩んだ戯言だったんだと。でもきっとそうじゃないんです。若気の至りだろうとなんだろうとそう感じたのは紛れもない事実で、それは今も心のどこかにちゃんと残っている、今の自分を形作っている大切な要素なんです。そのことをも思い出させてくれた。僕にはそんな映画でもありました。
最後にもうひとつ。グリンダ・チャーダ監督のユーモア、素敵ですよね。僕も沢山笑いました。マットのお父さんとか、ブルースの曲をバックに踊るマイケル・ジャクソン男とかめちゃくちゃ面白かったー!
フィルム・レビュー:
「ブロークバック・マウンテン」(2005年 アメリカ)感想
少し前に見た「君の名前で僕を呼んで」と同じく男同士の恋愛を描いた映画ではあるけれど、アプローチとしては真逆かもしれない。「君の~」が人の悪意が表に出てこないある意味現実離れした世界であったのに対し、本作では悲惨な描写も含めてゲイが普通の人と同じように生きていくことの出来なさを描いている。
映画は1963年から20年に渡る二人の関係が描かれている。途中、イニスが9歳の頃に目撃した同性愛者の悲惨な末路を語る場面があるけれど、それから数十年経った1980年代においても彼らを取り巻く環境は大きく変わっていなかった。
そんな中、二人はなんとか‘マトモ’であろうとするのだが、心に嘘は簡単につけるものではないし、人が生きていく上でも最も重要な愛の持って行き場がそれであるならば尚の事ごまかし続けて生きることは困難で、自分だけではなく周りの人をもその苦悩に巻き込んでしまう。現に二人とも女性と結婚をし子供を持ち、‘フツウ’の生活を営もうとするのだが…。
そういう意味では開き直りつつ自身のセクシャリティーに素直であろうとしたジャックの方が割と上手くやりくりをしているように見えるのは皮肉だ。一方のイニスは元来の不器用な性質もあり、掴みかけた‘マトモ’な生活を手放してしまう。
僕たちが暮らすこの文化というのは一体何が正しいのだろうか。少なくとも二人が過ごしたブロークバック・マウンテンでの日々でそれを問われることはなかった。羊や自然には関係のないことだった。しかし山を下りた途端、そこには社会が広がり、文化が広がり、そこからはみ出して生きることは到底許されなかった。たとえそれが自分にとって不自然な生き方であっても。
本来はストレートであったイニスと元々ゲイであったジャック。二人の生き方の対比が物語が後半に進むにつれ、より鮮明になっていく。物語の最後、上手くやれていたはずのジャックはこの世を去っってしまう。本来は悲しみだけが残るはずなのに、悲しみだけではない複雑な感情を残して…。
最後、イニスの元に別れて住む娘がやってきて結婚式に出席してほしいとお願いをする。今まで仕事が忙しく娘の願いを聞いてやれなかったイニスだったが、娘が本当に愛する人と結婚をするということを聞いて、彼はなんとか都合をつけて出席するよと笑顔でこたえる。それは何ひとつ人並みな幸せを掴めなかったイニスが初めて手にした素直な喜びだったのかもしれない。
ドラマチックにいいことが起きるわけでもないし、どうしようもない物語が続いていくのだけど、時間を忘れて2時限ずっと引き込まれていく、そんな映画です。
映画の舞台は1960年代から1980年代だけど、今現在はどうなんだろうか。確かにクイアに関しては理解されやすくなったとはいえ、本心を隠して生きている人はきっと多くいるだろうし、なかには映画の二人のように異性と結婚をして子供をもうけて、という人もいるかもしれない。
そういう事実はなかなか表立ってこないけど、きっとしんどい思いをしている人はたくさんいるのだろう。ではマジョリティーである僕たちはどうすればいい?
映画は積極的に知ろうとしなければなかなか耳に入ってこないことをエンターテイメントに落とし混んで教えてくれる。改めて映画は素晴らしいメディアだなと思いました。
フイルム・レビュー:
「君の名前で僕を呼んで」 (2017年 イタリア、フランス、ブラジル、アメリカ合作)
フィクションに如何にリアリティーをもたらすかがアートの大前提だとすれば、この映画は正しくアートだということ。そしてそれは美しさでもって語られる。
もしかしたらイタリア語フランス語英語を話し、ピアノを弾き自ら編曲をし、アントニア・ポッツィの詩集を友達に手渡すような早熟すぎる17才なんていないだとか、あんなに進歩的で物分かりのよい両親はいないだとか、二人がイケメン過ぎるだとか、悪い人どころか嫌な雰囲気の人すら登場しないだとか、要するにこの映画はとにかく非現実だと興ざめしてしまっている人もいるかもしれないが、誤解を恐れずに言えばあまりにも非現実的だからこそ、あまりにも美しいからこそこの物語は僕のような古い人間にも届いたのだと思う。
雑誌の批評を読んでこの映画に興味を持ち、男と男の恋愛がどういう風に進んでいくのかという下品な覗き趣味とプラトニックな美しさに期待をして僕はこの映画を見始めたのだが、それはすぐに間違いであることに気づいた。冒頭すぐに登場したオリヴァーはどう考えてもそんな生易しい存在ではなかったから。
僕は自分ではいわゆるLGBTQ的なことには理解がある方だと思っていたけど、実際、生々しい描写のあるこの映画をみていると、特にそういうまぐわいには目をどこにもって行けばよいのか分からなくなるしさすがに構えてしまうところはある。でも男と男というところに囚われなければそういうものではなかったかと。
ここまで劇的なことは誰もが経験することではないけど、自分も振り返り性的な衝動も含め人を好きになるということは心穏やかではいられないことで、つまり男と男であってもそれは同じだし、女と女だって多分同じ。どうってことないことこかもしれないけど、そういうことをゆっくりと時間をかけて染み込ませてくれた。僕にとってはそういう映画でした。
美しい映像共にゆっくりと理解するということ。身構えてしまうまぐわいもあの美しい夏の景色の連続した短いカットも控えめで回りくどいセリフも全ては僕たちに共通のもの。あぁほんとに水浴びのシーンはどれも素敵だった。
そして映画のタイトル。物凄く心引かれるタイトルですけど、これは心と体が結ばれたエリオとオリヴァーが交わした二人だけの秘密の言葉です。オリヴァーはエリオに「オリヴァー」と呼び掛け、エリオはオリヴァーに「エリオ」と呼び掛ける。映画の最後の方でお父さんが語った大切な言葉にも含まれているような気もしますけど、言ってみれば若い二人にとっての愛のおまじない、魔法の言葉ですよね。
かのゲーテは「人生でいちばん美しい時間は誰にも分からない二人だけの言葉で誰も分からない二人だけの秘密をともに語り合っているとき」と言いましたけど、まさにそんな感じでした。
最後のお父さんの話とその後の雪景色。これで終わりかなと思いきや冬の出で立ちのエリオが登場し、まさかのオリヴァーからの電話。ここでエリオは受話器越しにふたたび唱えます、「エリオ、エリオ、エリオ…」と。しかしここでのおまじないはもう風前の灯火。それでもエリオは嘆願するように「エリオ、エリオ、エリオ…」と唱える。
そして両親とオリヴァーの会話があって、暖炉の前にしゃがみこむエリオ。ここでのエリオの表情はそこに重なる音楽も含め本当に素晴らしかった!!
最後、ある人の何気ない呼び掛けで「エリオ」がただの人名、ただの固有名詞として終わるというのもこれ以上ない終わり方でしたね。
フィルム・レビュー:
未来のミライ (2018) 感想
自粛生活だからというわけではありませんが、『未来のミライ』を家族で見ることになりまして。で子どもたちがいちいち笑うんですよ、パパみたいって(笑)。オレ、そんなにくんちゃんのお父さんみたいに奥さんに尻に敷かれてんのかなぁと思ったりもするんですけど、間近で見てきた子どもたちがゲラゲラ笑うんだらきっとそうなんでしょう。僕も自分を見るようでちょっと恥ずかしい部分はありましたから(笑)。
ま、くんちゃんのお父さんもそうですけど、成長の物語ですよね。お母さんもばあばもひいじいじもゆっこもミライちゃんもくんちゃんも、ぜ~んぶ現在進行形でずっと生きてきた、或いは生きている。昔があって今があって多分未来がある。自分の人生だけじゃなく自分の存在も含め、点ではなく線なんだぞと。でもそういう気づきってちょっと元気湧いてきますよね。
それはごく当たり前の日常もしかり。ほら、電車乗って外見てたら色んな家があってマンションがあって。あぁ、あのマンションの灯りひとつひとつに人住んでいてそれぞれに悩みがあって心配事があって幸せがあって、ほんでもってちょっとしたドラマがあって。そんなこと思ったことありますよね?多分、そういう映画なんだと思います。
やっぱ細田守監督だから、「いっけぇぇぇーっ!!」みたいなカタルシスを求めちゃうところはあって、僕も最初は正直物足りなかったんですけど、あぁこの映画はそうじゃないなって。最初にワン・シチュエーション・コメディみたいなのがずっと続いていくことで見ている方の心の準備が、あぁそうじゃないなこの映画はって気づくんですけど、最初の限られた部屋での数シーンは多分そういう意図があっての演出だったのかもしれないですね。
物語は後半に入ると時代があっちこっち変わったりするんですけど、印象的なのはひいじいじのエピソードですね。この時のくんちゃんが男の子感が増してたのが良かったです。
で、ひいじいじがくんちゃんに言うんですね、「遠くを見ろ」って。凄く印象的に交わされるセリフですけど、この言葉がこの映画の一番深いところに流れるテーマだったのかもしれないなと思いました。
僕は子どもの時、自転車乗ってると壁とか木に結構ぶつかる子だったんです。あれは壁にぶつかると思ってそっち見ちゃうからぶつかるんであって、大丈夫な方、道の方を見れば自然と自転車は
ぶつかる方をそれていくんですね。だからやっぱ「遠くを見ろ」ってことなんです。
とかく夢見てないで足元を見ろって言われがちですけど、それも確かにそうなんですが、やっぱり視線は前向いて、自分の進みたい方向を見る。そうすると自ずとそっちへ向かっていくもんなんだと。綺麗事かもしれないですけど事実そういう部分はあるんだと思います。
今は世の中こういう状況ですから、そこと繋げて見てしまう部分はあるんですけど、やっぱり今だけを見てるとしんどいじゃないですか。そうじゃなく遠くを見る、未来であったり遠い昔であったり、点ではなく線を意識する。そうすることで少しはポジティブになれるのかもしれないですね。
手探りだから遠くを見るしかない。それは未来だけじゃなく時には過去の事だったり。それに僕たちの未来は唐突にやって来るのではなく、今と繋がっているし、勿論これまでとも繋がっている。
そういうテーマが割りと明確に僕には立ち上がってきました。映画見てそんな風にはっきりとしたイメージで捉えることはあんまりないんですけど、『未来のミライ』に関しては凄く明確に伝わってきました。