シン・ウルトラマン(2022年)感想

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『シン・ウルトラマン』(2022年)感想
 
 
リアルタイムで観ていたわけじゃないのですが、僕が小さい頃はよく再放送をやっていて、断片的にですけど初代ウルトラマンを観ていました。だから映画の中に出てくる小ネタ、というかホントの小ネタになるとマニアじゃないと分からないとは思いますけど、ちょっとしたネタなんかは分かるんですね。だから劇伴なんかも当時のそれっぽい感じで初っ端から「おお!」って盛り上がるんですけど、初代のテレビ・シリーズを観たことがない人はどうなんでしょうね。ちなみにエンドロールを見てたら劇伴は当時のものをまんま使ってましたね(笑)。
 
あとやっぱり『シン・ゴジラ』ですよね。どうしてもあのイメージがあってその延長線上を期待してしまっていて、冒頭の禍威獣(←怪獣のことです。『シン・ウルトラマン』ではこう呼びます)が続々と出てくるシーンで、あ、これはリアル路線で見ちゃいけないなと、あくまでも空想科学モノとして見ないとなと思い直したんですけど、なかなか自分の中で軌道修正できなかったです。『シン・ゴジラ』と同じように自衛隊とか政治家が出てくるので、どうしてもそういう目で見てしまう。ただ実際のところ、作り手側もリアル路線に後ろ髪引かれる思いがあったのかなと。政治家絡みのシュールな場面はもう少しユーモアを強調しても良かったかなとは思いますが、その辺がちょっとどっちつかずだったかなとは思いました。
 
それと僕は邦画を見る時に、テレビドラマもそうですけど、俳優をその俳優として見てしまいがちで、例えば福山雅治はどんな役をしていても福山雅治としか見れないんです。でも時々そうじゃないときがあって、福山で言うと是枝監督の『父になる』ですよね、あれなんかは福山としてではなく、ちゃんと役として見れてくる。だから映画を観る時の僕の良し悪しの判断はそういうところだったりするのですが、今回で言えば主役の斎藤工がちゃんと役名になっていて、そういう意味では雑念なくちゃんと映画を観れていたかなと思います。あ、山本耕史の胡散臭いメフィラス星人も良かったですね(笑)。それ以外は、、、言わないでおきます(笑)。
 
ネタバレになるからあまり言いませんが、ラストももう少し何とかならんかったかなぁと。CGばっかというのはねぇ。。。ただウルトラマンの造形は素晴らしかったです。変に小綺麗にならずに、ちゃんと皮膚感というかなんとなくウェットスーツ感も残っていて、そういうリアルさはありました。あと空を飛ぶ時の形ですよね、昔のままというのが嬉しいです。というようなところで、やっぱ初代を何となく知っているからこその楽しみがいっぱいあって、僕は楽しかったし、それに大きい画面でウルトラマン見れただけでテンション上がっちゃう口なので、映画館で観て良かったなと思いましたが、全世代的に男女問わず楽しめる映画かと言われると、少なくともうちの奥さんは見ないだろうなとは思いました(笑)。僕はもう一回観たいぐらいですけど(笑)。
 
あと少し真面目な話をすると、ガンダムの富野由悠季監督がある対談で、頭のいい理系の奴らが世界を悪い方に持っていく、なんて話をしていたんですけど、この映画でも巨大化であったり時空を歪めるなんてのを理系の賢い人は際限なしに本能で突き詰めていってしまう、結局それが戦いの道具になってしまうというような悪循環が裏テーマとしても流れているような気はしました。
 
それとセクシャリティーに関する問題ですよね。これはもう今や音楽でも何でもそうですけど、ここのところの表現をいかに真っ当に出来るかというのが非常に重要で、若い世代では特にもう当然のように捉えているところだと思うのですが、そこでの認識が非常に甘いなと思いました。これではやっぱり昭和世代のクリエイターの作品だなと思われても仕方がないし、そういう意味でも幅広く支持はされないだろうなとは思いました。

映画『オアシス:ネブワース 1996』(2021年)感想レビュー

フィルム・レビュー:
 
『オアシス:ネブワース 1996』 (2021年)
 
 
劇中で「リアムはこの時が声もルックスもピークだ」なんて言っている人がいましてですね、いやいやデビュー当時もカッコエエし、なんなら今の大人な渋さもエエやんって心の中で思いまして。で、映画を観終わって帰る道すがら当然のごとくYOUTUBEだなんだと色々見返していたんですけど、やっぱり思ったんですねぇ、「ネブワースのリアムが一番カッコエエやん!!」と(笑)。
 
そりゃデビュー当時は『Live Forever』の裏声だって自分で歌ってたし、アラフィフの今は今で渋くって好きなんですけど、あの大声と爆発力はやっぱネブワースの頃だなと。しかも映画観てるとタバコ吸いながら歌ってるシーンもあって、それであの声ですからやっぱこの人すげえなと。ま、この不摂生のせいでこの後は声がダメになっちゃうんですけどね(笑)。それにしても『Slide Away』のラスサビ後のコーラスをリアムががなり立てるとこはめちゃくちゃカッコエエ!!
 
オアシスが解散して十数年経ちますけど、過去に一度でも彼らの音楽に夢中になったことがある人なら、この映画はきっと気に入ると思います。僕もちょっと忘れかけてたんですけどね、この映画を観て思い出しました、リアム、すげぇって。ネブワース公演自体は何年も前からYOUTUBEで見れるんですけど、多分もう皆忘れてしまってると思うんですね。そこへこうやって改めて映画館で観るとですね、『Don’t look Back in Anger』と『Wonderwall』を同じ週に書いて『The Masterplan』をB面にするソングライティングの化け物ノエルと、天性のフロント・マンであるリアムがいるあのとんでもなかったオアシスの特別感というのがまたよみがえってくる感じはありますね。
 
映画は、僕はてっきりフィルム・コンサートみたいな感じかなと思ってたんです。でも全然違って、ネブワース・ライブに参加した当時の若者、25年経ってますから今はもういい年をしていますけど、彼彼女らの証言で進んでいきます。彼彼女らがどういう思いであの日に臨んだのかっていうところに焦点を当ててですね、何しろイギリス国民の2%がチケット争奪をしたっていうぐらいですから、そのチケットをどうやってゲットするかというところから始まって、片田舎のネブワースに到着するまでの姿を、それだけじゃなくラジオ中継もあったので参加できなかった子たちがラジカセの前で準備する様子とかもね、当時の映像なんかも交えながら進んでいきます。
 
これがすごくよかったです。こういう映画にありがちな業界関係者の証言とかじゃなく、ファンの声ですよね、それがいかに彼彼女らにとってオアシスがどういう存在であったというのをちゃんと伝えてくれるんです。今じゃもう彼彼女たちは中年ですよね。ここまで色々ありながらも何とかサバイブしてきた。その人生半ばを過ぎた今、過去を振り返ったときに何があったかというとね、人に自慢できるものはなかったかもしれないけれど、あのオアシスとの日々があったという事実。実際栄光を掴んだのはオアシスであってファンの子たちではないんですけど、俺たちも栄光を掴んだ、あの時の俺たちは輝いていた、そんな風に思わせる力がやっぱりオアシスにはあった、その象徴としてネブワースはあったんだなというのがヒシヒシと伝わってきて、これはちょっと感動的でもあるんです。
 
今はコロナですからライブにも行けなくて、僕自身もこれまでにチケットを買ったものの行けなかったライブが4つあります。エンターテインメントは不要不急呼ばわりされて、それも仕方ないとは思うんですけど、音楽が必要なんだという人は世界中に沢山いて、実際に誰かの人生に寄与してきた、そういう事実をこのコロナ禍にあって図らずもこの映画は示してくれた、そんな気もします。
 
あとさっき当時のイギリス国民の2%云々って話をしましたけど、映画を観る限りは白人の若者ばかりなんですよね。たま~に黒人とかアジア系とかいますけど、ほぼ白人。イギリスはパキスタン移民も多いはずなんですけど、ネブワース公演の映像を観る限りはほとんどが白人の男女。だからどうなんだということではないんですけど、2021年の今ではそういう目でも見てしまうとこあるなとは思います。当時の白人じゃない若者はどうだったのかなぁって。
 
映画は2週間ほどで公開を終了するみたいですから、今更オアシスっつってもな~って迷っている人がいたら、ちょっと時間に余裕があれば、観に行ってもらいたいなと、得るものはあるんじゃないかなとは思います。
 
私はなんか今の勢いじゃ、もうすぐリリースされるネブワースのCDを買ってしまいそうです(笑)。映画を観た後だと、オリジナルのスタジオ録音バージョンは物足りないんだよなぁ(笑)。

『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

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『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

 

映画『風立ちぬ』を見て今思うのは、やっぱりあれは菜穂子の物語だなと。二郎は子どもの頃から飛行機が好きでその道へ没頭しますが、栓なきことを言えばそれだけのことなんです。自分のもっとも良い時期に生涯の仕事をやり遂げた。それだけなんです。

じゃあお前はどうなんだと問われれば随分と心許ない。どころか二郎に比べちっぽけなことも成し遂げていない。そういう意味で言えば失礼ながら僕だけではない。世のほとんどの人がそうだと思います。

であるならば。二郎の生涯、と言ってもまだ壮年には程遠いですが、僕たちの人生とは少しかけ離れた世界とも言えるのかもしれません。にも関わらず宮崎駿監督はそうしたある種特殊なひとりのエンジニアの半生を描いた。なぜか?そこには菜穂子の存在があったから。それしかないように僕は思います。

この物語をもう少し知りたいと思って、原作のひとつにもなった堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読みました。原作と言うより着想を得た、と言ってよい繋がりだとは思いますが、そこで得た僕の感想はやはり、主人公の男は頼んない。

頼んないというのは物語の主人公としてという意味ですが、この物語の主人公は余命幾ばくもない女性とのサナトリウムでの交感、その言葉にならぬ、例えば夏草の先にしずくのように命が少しずつ溜まっていくような描写、そんな物語だと思うのですが、それに比較して主人公の男のつまらなさ。いや、二郎は優しくていい男ではあるんてすが、そうではなくこれは自分も含めた男のつまらなさなんだと思うのですが、突き詰めて言えば映画『風立ちぬ』での二郎もそれに似たような、彼は彼の人生をもしかしたら主体的に生きてきたというのとは少し違うのかもしれないと。

というところとの比較。菜穂子は完全に主体的であったわけですから、だからこの映画の二郎の半生というのは極端に言えばバックグラウンドに過ぎない。より重要なのは『風立ちぬ』というタイトルになっていますけど、そういう生涯の仕事をした、というはっきりと目に捕まえられるような代物ではなく、もう少しぼんやりとした抽象的なものが主題だったような気がして、その主題にもっとも近づいたのは菜穂子の方だったのではないかと。勿論二人の交感というところではあるけれど、それもより菜穂子の側にその働きかけはあった、というところが僕がこの映画はやっぱり菜穂子だよなぁと思うところではあります。

『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

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『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

 「風立ちぬ」を観た
 これは菜穂子の物語
 あの子の命はひこうき雲
 一粒。泣いた

これ、2015年に初めて『風立ちぬ』を見たときに書いた僕の詩です。下手な詩ですね(笑)。失礼しました。

一編の詩を読むような、詩集を開くとそこに匿われた物語が一気に吹き出し、詩集を閉じるとすべてが元に吸い込まれていく。あれは夢か幻か、いや現実だったのだと。そのようなじんわりとした余韻を残す映画でした。

映画は詩で始まり、詩で終わります。始まりはポール・ヴァレリーの詩の一節、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」(「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄訳)ですね。風が立ったのなら生きねばならぬ、ということでしょうか。

では風が立たなかったら。当然風が立たなくても人は生きねばなりません。風が立つ、立たないは別にして生きねばならぬのがつらいところではありますが、案外気がつかないだけですべての人に風は立っているのかもしれません。

明確に風が立った二郎。カプローニさんに導かれて我が道を進みます。一方で菜穂子はどうか。僕は菜穂子にも風は立ったのだと思います。というかむしろそこに心を掴まれた。

映画は荒井由実『ひこうき雲』で終わります。そうですね。歌の途中からはエンドロールに入りますが、映画はこの歌も含まれる、この歌でもって完結する、そんな気がします。

宮崎駿作品には「女=守られるもの」、「男=守るもの」という構図があるような気がしますが(とか言いながら僕はラピュタがめっちゃ好き。ま、所詮男ですから)、この映画での菜穂子はそこを凌駕しているような気がするのですが果たしてどうでしょうか。女性からはどう見えたのかな、というところです。

ところで、『風立ちぬ』、これまでと比してもとりわけ絵が素晴らしかったと思いませんか。この点で言えば宮崎駿作品の最高傑作ではないでしょうか。風景の動き、人の動作、角度、それに伴う周りの変化。そうですね、飛行機の上を歩く二郎とカプローニの足元がへこむところ、最高でした。人の動きを見ているだけでもうっとりしますね。僕が好きななところは眼鏡の中の目と実際の目がそれぞれ別に描かれていた二郎の横顔。同じくド近眼の人間として感動しました。

多分いつも以上に絵に力を込めていたような気はします。台詞ではなく風景で、絵でやり過ごす、というケースが非常に多かったように思いました。この映画は詩で始まり詩で終わると言いましたが、そういう絵で見せるという部分も僕にそう思わせたのかもしれません。つまりここは意図的かと。詩というのは言葉ではなく風景なのかもしれません。

映画『すばらしき世界』(2021年) 感想

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『すばらしき世界』(2021年)

 

映画は当初、原作どおり『身分帳』というタイトルのまま行く予定だったらしい。ところが撮影が進んでいくうちに、思うところがあって西川美和監督は『すばらしき世界』というタイトルに変えたそうだ。
 
何故だろうか。監督は今までオリジナルの脚本でしか映画を作ってこなかった。けれど今回は『身分帳』という原作に出会って映画化しようと考えた。それは当然のことながら、ストーリーのみならず主人公にも魅力を感じたからであろう。そして撮影が進むにつれ、紙面でしか存在しなかった主人公がリアルな魅力を放ち始める。しかも演じるのは役所広司。生身の三上がそこにいるのである。
 
映画の後半では三上の就職祝いパーティーが開かれる。彼を支援してきた心暖かい友人たちは口々に言う。「もっと自分を大切に」、「辛抱することも大事」、「我慢できないときはここにいる私たちを思い出して」と。三上は頭を垂れてもう二度と短気は起こさないと誓うが、最も近くで三上を見てきた津乃田は複雑な思いだ。映画を観ている側の我々も答えのない疑問に迷い込む。こうやって三上が ‘丸くなる’ ことを望んでそれでよいのだろうか。「善良な市民がリンチにおうとっても見過ごすのがご立派な人生ですか!」と激しく苛立った三上を消し去ってよいのだろうか。
 
当初は三上の生き方を相容れなかった津乃田はしかし、三上と長い時間を共有することで彼の人間的魅力に惹かれていく。そしてそれは自身を見直す契機にもなる。三上に最も近い観察者である津乃田はすなわち映画を観ている我々でもある。そして津乃田や僕たちをそう導いているのは西川美和監督に他ならない。けれど監督にそう思わせたのは三上であるという循環。
 
僕たちはそこにいなかったがそこにいた。そして三上という人物に触れた。原作『身分帳』は乾いた筆致が魅力であるけれど、三上を或いは彼を取り巻く世界を知った以上、もうそれを『身分帳』という ‘乾いた物’ で言い表すことはふさわしくない、監督がそう考えてもおかしくないのではないか。 生身の人間が行き交う世界、それを西川美和監督は『すばらしき世界』とした。そしてそれは′ご立派な人生’ を歩む僕たちの世界をも含んでいる。
 
監督はこれまでオリジナルの脚本でしか映画を撮らなかったが、今回初めて原作のある話の映画化に取り組んだ。そして原作とは異なる視点を持ち込んだ。意味を限定する固有名詞である『身分帳』から意味を規定しない『すばらしき世界』へ。今となってはこれ以上のタイトルは考えられない。

『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その2

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『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その2

※以下、ネタバレありですのでご注意ください。

 

前回の投稿では感想と言いながらちょっと映画とはかけ離れてしまった感かあるのでここで改めて。というよりやっぱり思うところが沢山出てくる映画でなんです、なんか気づいたら考えてるっていう。だから『すばらしき世界』というタイトルはホント奥行きのあるタイトルだなと、原作は『身分帳』という小説なんですけど(早速、買いました)、よくぞこのタイトルに変えたなぁと思います。

映画は人生の大半を少年院や刑務所で過ごした男が社会に復帰するもののうまく馴染めないというところを人と人との関係においてどうなっていくのかというのが主なストーリーにはなっているんですが、男の苦悩が合わせ鏡のように僕たちに返ってくるんですね。つまり主人公は弱いものが責められているのをほっとけないし、間違ったことを見過ごすことは出来ない。一方僕たちはホントは正しいと思えることでもそ知らぬフリをしたり、えっ、気づかなかった、みたいなズルい生き方をしていることが往々にしてある。もちろん正義のつもりでも相手を半殺しにする主人公はよくない。でもお前はどうなんだって。

映画のラスト近くで主人公は介護施設に職を見つける。そこで若い同僚が同じく同僚の障害者をあいつはホントに出来ねぇと言ってイヤなものまねをするんです。で映画を観ている僕は思うわけです。以前と比べて世間と折り合いを付けれるようになった主人公はこれまでのような暴力ではなく、違うやり方で若い同僚を戒めるはずだって、いや戒めて欲しいと。でもそれって勝手な話ですよね。主人公に対して散々世間ともう少しうまくやりなさいと言い続けてきたくせに、いざとなりゃ自分のことは棚に上げ、主人公に本来の正義感を発揮していさめて欲しい、ギャフンと言わせて欲しいと願う。なんて勝手な話だと思う。そういう風にして色々なことが観ているこっちにそのまんま返ってくる、そんな映画だと思います。

2018年度の犯罪白書によると、2017年の検挙者のうち再犯者は48.7%。受刑者の約半数が再犯者になっています。加えて2017年の再犯者の72.2%が逮捕時には無職でした。しかし何も好き好んで無職になったわけでありません。僕たちの側(と言ってしまうこともどうかと思いますが)にも大きな問題があるのです。

介護施設で働く主人公は素性を隠して生きています。自分に嘘がつけない主人公が自分に嘘をついて生きている。本来であれはちゃんと刑期を終えたわけですから元受刑者であったことを隠さなくてもよいわけです。けれど隠さざるを得ない。映画のクライマックスで主人公は同僚の障害者から花をプレゼントしてもらいます。その瞬間、二人は裸の魂の交感をする。その刹那、主人公は恐らく同じものを相手に見たんですね。とてもエモーショナルで美しい場面でした。

主人公は自分に嘘が付けない。一方僕たちは毎日小さな嘘をついている。主人公は心の声に従い暴力を用いてそれを正そうとする。それは良くない。けれど僕たちは見なかったフリをしてその場を立ち去る。何が正しくて何が間違っているのか。だんだん分からなくなってくる。でもそれは簡単に答えが出せるものではないし、むしろ答えなどないのかもしれない。『すばらしき世界』とはなんなのか。正しさとはなんなのか。これは観たものにそんな問いを残し続ける映画なんだと思います。

最後に、役所広司さんをはじめ皆さん本当に素晴らしいかったです。役所広司ではなく三上さんがそこにいました。主要人物だけでなく、街のチンピラやソープ嬢といった少ししか登場しない人たちにも本当にそこにいるようなリアリティーがありました。素晴らしい作品です。映画館で観て本当によかったと思います。

『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その1

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『すばらしき世界』(2021年) 雑感 その1

 

映画を観た後、友達と会う約束をしていて、コロナだからホント久しぶりで、その時にまぁ久しぶりだからか随分と真面目な話もしたんですけど、その時の話の流れで、僕には小学生時代からの友人がいて、もう色々と知った仲ではあるんだけど、そういう人たちとも何かのきっかけでもう二度と会わなくなるなんてこともあり得るんだという話をしまして。もちろん大切だし彼らがいなくなったら僕は声をあげて泣くかもしれないけど、人と人との間というのは何が起きるか分からないし、だからと言って人と人との関係に絶望している訳ではないし諦めている訳ではないし、そこは信じている、ただそういうこともひっくるめて人間関係なんじゃないかなというような話をしたんです。

映画は最後に思いがけない終わり方をして、終わり方が思いがけないというのもあって、映画のタイトル『すばらしき世界』が僕には大きな壁として立ち上がったんです。で、映画を観終わった後もずっとあのタイトルはどういう意味だったんだろうと考えていました。それでその後友達とたまたまそういう話をして、その時はもちろん映画のことなどすっかり忘れていたんですけど、今になってあぁそうか、『すばらしき世界』というのはそういうことも含まれているのかもしれないなって、不思議となんか繋がったんです。

また一人の帰り道。これも唐突な話ですけど、何年か前に樹木希林さんが日曜美術館で、その時の回は北大路魯山人の話だったんですけど、魯山人には彼のことを理解してしくれる人がいた、で、司会者は樹木さんに「樹木さんには分かり合えるひとはいますか」というような質問をしたんです。その時に樹木さんは「人に期待してもらっては困ります」なんて返したんですね。当時僕はそれを聞いて涙が出そうになったんですけど、そのことを帰り道で不意に思い出した。樹木さんも恐らく人に対してたかを括ったり諦めていたということではないと思うんです。樹木さんは愛情をこめてそれを仰った。だからこそ僕は胸が熱くなったんだと思います。そこもなんかこの映画から呼び起こされた記憶なのかなっていう気がしています。

『RBG 最強の85才』(2018年) 感想

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『RBG 最強の85才』(2018年)
 
 
ルース・ベイダー・ギンズバーグさんのことは恥ずかしながら、この映画が公開されるまで知りませんで、最高齢の女性最高裁判事であり、米国の国民的アイコンであるというのを何かの記事で知り、是非見に行きたいなと思っていたのですが、気付いたら公開が終わってました。
 
で去年にそろそろTSUTAYAに出てるかなと覗きに行ったのですが残念ながら置いてなくて。ギンズバーグさんの映画はもう一本、『ビリーブ 未来への大逆転』というのもあるよと、友達に教えてもらったんですけど、これもTSUTAYAに置いてない!あぁ、AmazonプライムとかNetflixとかしな見られへんのかぁ、と思っていたら、なんとEテレの『ドキュランド』でやっとるやないか!始まる10分前に気づいたオレ偉い!ということで流石Eテレ、ええのんやりますなぁ。
 
  女性最高裁判事ということで勝手にヒラリー・クリントンとか小池都知事のようなガラスの天井ぶち破るみたいなイメージを持っていたのですが、いやいや全く正反対でしたね、ギンズバーグさんは。そこがまず新しいというか、新しいなんて言うと怒られるかもしれんが、女性であっても相当の地位に上り詰める人は男同様マッチョな人なんだというイメージを勝手に持ってたんですけど、今の時代そればっかりじゃないんですね。僕が知らないだけで、物静かで大人しい人でもリーダーを務めている人は沢山いるんです。女性であっても男性であっても。
 
だからまぁ特別感というのが薄いんですね、自分とは関係のない秀でた人、遠い存在ではないんです。世の中特別な才能を持った人より、僕もそうですけど自分をなんの取柄もない普通の奴だと思っている人が大半ですから、やっぱりギンズバーグさんの生き方というのはやっぱ励みになる。もちろん簡単にはいかないですよ、ギンズバーグさんの努力はすんごいですから(笑)。でも明らかにこいつ凄いなっていう才能ではなく、ギンズバーグさんの自分がすべきことに全力で取り組む姿勢というのは、僕たち自身の仕事で頑張ったり、夢を叶えたいなっていう道筋を照らしてくれますよね。これはやっぱり大きな勇気に繋がります。彼女が若い子に特に人気があるっていうのは凄く分かります。
 
あと彼女はいつも冷静で声を荒げたりしないですよね。映画でも「赤ちゃんに喋りかけるように話すことは何度でもあった」って話してた(笑)、そういう落ち着いた態度も凄く憧れます。凄みとか圧力とかでじゃなくて論理的に話す。それでも分からない人にはもっと分かりやすく赤ちゃんにも分かるように話す(笑)。そのためにしっかりと勉強をしてこれでもかというぐらい準備をする。結局、近道はないんですね。でもそこを徹底的にやりぬいた。
 
僕なんか誰かを出し抜きたいとか、いい恰好をしたいとか、いい風に思われたいとかいうのがやっぱり抜け切らないんですけど、そういうところじゃなくて為すべきことをするっていう。ホントかっこいい人です。
 
この映画は怠惰な自分を戒めるためにも定期的に見るべし、ですな。もう永久保存版です。

グランド・ブダペスト・ホテル (2014年) 感想レビュー

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グランド・ブダペスト・ホテル (2014年) 感想レビュー

 

一人の女性が墓地を通り過ぎ、とある作家の胸像の前に立ち止まる。胸像にはいくつもの錠前が掛けられていて、女性も持参した錠前をそこに掛ける。彼女はベンチに腰かけ手にした本を開く。タイトルは「グランド・ブダペスト・ホテル」。そんな風にしてこの映画は始まります。

あらすじです。1930年代、さる東欧の国では由緒正しきホテルが人気を博していた。顧客は主にセレブリティ。特に年配のご婦人には絶大な人気を誇る。このホテルの人気を確たるものにしているのはコンシェルジュであるグスダヴ・H。そのおもてなしは微に入り細に入り、夜のおもてなしも辞さないというもの。ところが長年の顧客であるマダムに突然の訃報。彼女の遺産相続争いに巻き込まれたグスダヴは殺人容疑をかけられてしまう。

先ほど述べた冒頭のシーンに戻ります。本の裏表紙には作家の写真(※胸像の人ではない)。物語はその作家の回想でスタートします。若き日にグランド・ブダペスト・ホテルを訪れた時の記憶。そこで出会った深い孤独を刻んだ老紳士。その紳士は作家にかつて共に過ごした偉大なコンシェルジュ、グスダヴ・Hとグランド・ブダペスト・ホテルの物語を語り始める。

と、ここまでで、この映画は二重三重の入れ子構造になっていていることに気づく。ひとつ目が墓地の女性のシーンで、ふたつ目は彼女の本の中。みっつ目は更にその中の作家の回想で、よっつ目は作家の回想の中の老紳士の回想。というふうに物語は箱の中の中、またその中の中、といった具合に進んでいく。それはまるでおもちゃ箱のようで額縁の付いた紙芝居のよう。現に幕間が変わる毎にそれぞれのシーンを題したタイトルが画面いっぱいに表示される。

その映像は特徴的でウェス・アンダーソン監督は正面、真後ろ、若しくは真横からしか写さない。加えてシーン毎に統一したカラフルだけど淡い色使いは尚のこと紙芝居のような印象を与え、また登場するキャラクターはまるでスヌーピーのマンガのようにデフォルメされている。誰がどうという強いイメージ付けは控えられ、主役であろうが脇役であろうが同じトーンで語られる。ある意味平面的に、というか恐らく意図的に。有名俳優がバシバシ出てこれるのはそうしたトーン故、かな。そして全ての登場人物にどこかユーモア、どこか抜けているところがある、というのもチャーミングな点です。

映画はシュールでドタバタなブラック・コメディとして楽しめる。けれど特徴的なウェス・アンダーソン監督の映像美や不可思議さもあってファンタジーの要素も強くある。或いは追いつ追われつのクライム・ミステリーとして見る人もいるかもしれない。そのどれもが並列しているのは確かだが、やはり冒頭のシーンが気にかかる。

映画は「Inspired by the writings of STEFAN ZWEIG」という言葉で締めくくられます。シュテファン・ツヴァイクとは1930年代活躍したウィーンの作家だそうで、当時のウィーンはハンガリー・オーストリア帝国にありました。ユダヤ人への迫害もなく今で言う多様性が大いに認められた自由な雰囲気のその国家では文化的なサロンも充実し、シュテファン・ツヴァイクはそこでかのフロイトやカフカ、シュトラウスといった人々と交流を深めていったそうです。ツヴァイクは来るべき平和な世界をそこに見ていたのかもしれない

ところが時代はファシズムのが徐々に忍び寄るナチスが台頭してくる。やがてツヴァイクの祖国は完全に飲み込まれてしまう。そしてツヴァイクは自死を選んでしまう。絶望したのだろうか。

映画は基本的にはコミカルにテンポよく進んでいくがグロテスクな描写もあるのでご用心、ウェス・アンダーソン監督は要人物が最後にあっさりとああなってしまうことも含め、あの戦争のことを記憶させたかったのかもしれない。冒頭のシーンや「Inspired by the writings of STEFAN ZWEIG」という言葉は愛する作家、シュテファン・ツヴァイクを投影させ、自身の得意とする分野、得意とする手法であの戦争の時代を描くことではなかったか。

しかしそれはそれとして、絵本のように時折パラパラとページをめくり、或いは絵画のように部屋に飾って時折眺めたい、そんなチャーミングな作品であることは間違いない。まずはその世界に身をゆだねたい。

「聲の形」(2016年)感想レビュー

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「聲の形」(2016年)感想レビュー
 
 
先日、テレビ放送されていたこの作品、タイトルを見て気になったので録画をして観ました。僕はアニメーションには詳しくないのですが驚きました。アニメーションってこんなに繊細な表現ができるんですね。すごく丁寧な作りだなという印象を受けました。
 
てここで良かった点。オープニング曲にThe Whoの「My Generation」が使われていた!!僕としてはこれだけで、はい、観ます観ます!って感じでしたね。ま、なんでこの曲なのかはよく分かりませんでしたけど(笑)。
 
観ていて先ず思ったのはすごく作り手が冷静だなと。表現をしたいことがすごく明確にあってそこがぶれていかないという。だから高校生たちの青春物語であり、聴覚障害者が登場するというところに目が奪われがちですけど、それは設定に過ぎないというか、目指したい場所に向かって丁寧に歩を進めていく、そんな感じがしました。
 
あと、やっぱり言い過ぎないというのが効いてますよね。中にはちょっと分かりにくいという人もいるかもしれないですけど、敢えて説明しないというのかな、かといって分かる人にだけ分かればいいというのでもなく、分からないところがあっても、そういう感覚と並走していける優しさもちゃんとあるんです。
 
ただ、なんでもそうですけど分からないって当たり前のことなんですね。なんでも分かりやすくっていう時代ですから、すぐになんでも分かろうとしますけど、実はそうじゃなくって、この映画も当たり前にそういうトーンですよね。最後も明確な答えは出てこないし。でも明らかに彼彼女たちは成長してますよね。だから最初にこの映画は繊細で丁寧でって言いましたけど多分そういうことなんだと思います。
 
あとこれは一番思ったことですけど、主要登場人物の誰にも肩入れできない仕組みになってるんですね。誰とも近寄れない距離感がある。多分映画を観た人の多くは好きな登場人物っていないんじゃないでしょうか。でもそれもやっぱり当然というか、人ってそんな簡単なものではないですよね。そういう揺らぎが登場人物にちゃんとあって、こちらとの距離感も揺らいでいく。この感じもなかなか新鮮でした。
 
個人的な話になりますが、僕には小学校からの友人が何人かいて今も年に2回ぐらいは会うんです。30年以上の付き合いですからまぁ仲はいいです。でもだからといって彼らとの間には永遠の友情があるだなんて思っていないんです。人と人との関係はそんな簡単なものじゃないんです。30年以上の付き合いがあろうが、明日からはそうじゃなくなるかもしれない。人と人というのはそういう部分をはらんでいるんですね。
 
だからあの登場人物たちもね、これからも色々あるんです。今は友達ですけど、離れ離れになって結局誰一人一緒にはいないかもしれない。でもそれは別に驚く事ではなく普通のことなんです。でもずっと誰とも分かり合えないの嫌じゃないですか。ほんのひと時でも良い関係を築きたいし、楽しい時間を過ごしたい。だから多分僕たちは他者とコミュニケーションを図ろうとするんですね。そしてそのほんのひと時の繋がりが命を救うことだってあるわけです。
 
今の世の中って繋がろう繋がろうって割と簡単に言います。それはそれで良いことかもしれませんが、そうではない、人と人とはそう簡単には繋がれないんだよ、でもだからといってそこで切ってしまわないで、丁寧に握手をしようとする。そういう誰もが経験する、そして今も誰もが現在進行形で真剣に行っているコミュニケーションについてを非常にリアルに切り取った映画だと思いました。
 
最後に。この映画はすごく良かったんですけど、ちょっと女性の脚を見せるようなカットが多かったんですね。それ必要かなって。こういう絵は要らないんじゃないかなとは思いました。