詩について:
「アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて」
先日、バイデン新大統領の就任式が行われました。 式典にはレディー・ ガガさんをはじめ多くのアーティストが花を添えましたが、 最も話題となったのは22才の詩人、アマンダ・ ゴーマンさんによる自作詩「The Hill We Climb」の朗読でした。 なんでも大統領就任式では詩人が招かれ詩を朗読するのが慣例にな っているようです。 前大統領の時は詩人が招かれることはなかったようですが(笑)。
僕も字幕付きの動画を見ましたが(ネットですぐ検索できます)、 自作詩「The Hill We Climb」、そして彼女のパフォーマンス、 共に素晴らしかったです。何も知らない理想主義だと、 グレタさんに対してと同じように揶揄する人もいると思いますが、 できない理由を列挙する古い政治家よりも僕は圧倒的に彼女たちを 支持します。心を打つとても素晴らしい朗読でした。
ところで彼女の詩、ところどころで韻が踏まれていました。 僕は英語が得意ではないのですが、 それでも意識して聞いていればそれとわかる箇所がいくつもありま した。これはもう詩のマナーですね。古くはウィリアム・ ブレイク、現代でもボブ・ ディランをはじめ多くのアーティストが当然のように韻を踏んでい ます。 これは詩は読まれるものだという前提があるからなんだと思います 。決して紙面上に書かれて終わりということではないのですね( 勿論、それだけでも詩は成り立ちます)。
韻を踏むことで聴き手への伝播力は高まります。 しかしただ韻を踏めばよいというものではない、 あくまでも聴き手に伝わりやすくリズム感を添えてということだと 思います。僕も詩を書くので分かりますが、 つい韻に引っ張られてしまうことがある。 しかし大事なのは韻を踏むことではなく、相手に伝えることです。 今回、ゴーマンさんはとても上品に韻を踏んでいました。目から鱗でしたね。
あと言葉での表現について言うと、 ’Show, don’t Tell’ 「語るのではなく、見せる」というものがあります。「嬉しい」 とか「悲しい」と言っても、 どう嬉しいのかどう悲しいのかは相手には伝わらない、 だから映像化しろというものです。例えば「嬉しい」時。「 心が躍りあがるほど嬉しい」 と言えばどれぐらい嬉しいのかがより伝わります。例えば「冬の朝」というよりも「太陽がゆっくりと腰を上げる朝」と言った方がイメージが湧くと思います。ゴーマンさんの詩、 特に後半部では視覚的な描写を畳みかけてきます。 歌で言うところのサビですね、 最も強調したいところを映像で見せていく。 そしてここでゴーマンさんの口調も激しさを増し早口になる。 この効果は大きいと思います。
この 「語るのではなく、見せる」という部分、 2018年に当時中学3年生だった相良倫子さんが沖縄全戦没者追 悼式で朗読した自作詩「平和の詩」 は更に強烈に映像を喚起させるものでした。 沖縄戦の悲惨さを語るのではなく、 映像をフラッシュバック的に次々と投げ込んでいく。 この詩の朗読映像も検索すればすぐに見られます。 詩のありようがどういうものか、興味がある方は是非。
そしてこれが一番大きいと思うのですが、 アメリカという国はいろいろ問題を抱えてはいますが、 大統領就任式典に詩人が招かれ、 自作詩を朗読するという事実が本当に素晴らしいなと思います。 詩というのもは生活に根差したものなんですね。 そして僕たちの日常になんらかの良きものをもたらしてくれる。 そんな風に僕は捉えています。 しかし日本においてはどうでしょうか。
日本の詩は先人たちが長い年月をかけ素晴らしいものを積み上げて きて、僕たちはその恩恵にあずかっている。 それは間違いない事実です。 けれど一方で詩が遠くなってしまった、 僕たちの日常と関係のないものになってしまった部分も否定できな い。 このことは新しい時代において僕たちが変えていかないといけないことだと思います。
ライミング、映像化する、僕たちの生活と地続きである、 という点で考えてもゴーマンさんのそれはスピーチではなく、 詩の朗読(ポエトリーリーディング)です。僕も日常に詩を取り戻していきたい、アマンダ・ゴーマンさんの朗読を聴いてそんなことを思いました。