詩について:
鶏/萩原朔太郎
萩原朔太郎。北原白秋や室生犀星らとともに日本の近代詩の可動域を広げた大正期の詩人です。大正期の詩人ではあるけれど、非常に身近な詩人といいますか、扱っている題材がほぼ‘憂鬱’ですから(笑)、非常に現代的な詩人ですね。
僕なんかは彼のことを‘憂鬱の詩人’なんて言ったりしていますが、まぁでもそれは愛情を込めてと言いますか、というのも彼の詩は憂鬱でありながらも愛嬌があるんですね。僕がある程度年を重ねているせいもあるとは思いますが、憂鬱と言いながらも憂鬱と遊んでいるような気さえする、そこはかとないユーモアを感じる。つまり憂鬱と付き合うのが上手な詩人、というイメージでしょうか。
イメージと言えば、情景描写に長けた詩人とも言えます。読み手にいつも情景を喚起させる。直接的に憂鬱を語るのではなく、情景を通して憂鬱を語る。そういう手法でしょうか。
鶏 萩原朔太郎
しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏(にわとり)です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう とをるもう、とをるもう。
朝のつめたい臥床の中で
私のたましひは羽ばたきする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然から呼びあげる鶏(とり)のこゑです
とをてくう とをるもう、とをるもう。
恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ、ほのかなる菊のにほひを
病みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされてゆく白菊のはなのにほいを
恋びとよ
恋ひどよ
しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく遠い地角のはてを吹く大風のひびきを
とをてくう とをるもう、とをるもう。
「しののめ」とは東雲と書きます。東の空がわずかに明るくなるころ。ここで読み手は夜明け前のそれも随分と早い頃合いを想像します。
その「しののめきたるまへ」に聞こえてくるのは戸外の鶏の声。「声をばながくふるわして」ですから、あまり良いイメージではないですね。そしてそれは例えれば「母の声」だと。ここでは決して見晴らしのよいものではない、自分を引き留める者、煩わしいもの、ということでしょうか。
ここで謎のオノマトペ(擬声音)。「とをてくう、とをるもう、とをるもう」。ここは声に出して読むとニュアンスが膨らみます。僕の場合は「を」を「wo」と読みます。
「朝のつめたい臥床の中」で、作者の若い精神は羽ばたかんとする。きっと外の世界は輝いていると。けれど「しののめきたるまへ」に臥床に忍び込んでくるのは憂鬱な田舎からの沈んだ声、「とをてくう、とをるもう、とをるもう」だと。
しかし主人公はその憂鬱なるものを憎んではいない。ある意味魅力あるものとして捉えている。そしてそこには死の匂いを感ずると。その素直な気持を「恋びと」に呼び掛けます。ここでの「恋びと」は具体的な姿形を持つものとは限らない。それは主人公の愛すべきイメージ。或いは実在かもしれませんが、そこはさして重要ではない。透明なる母性かもしれません。
証拠に第4連ではその憂鬱を「うすい紅いろ」と例えています。「たえられない」といいながら、魅力ある「うすい紅色」ですから、ここが萩原朔太郎の面白いところですね。
そして「恋びと」、「母上」へ呼びかけます。「早くきてともしびの光を消してよ」と。「ともしび」は要らないと。結局は「私のたましひは羽ばたきする」とか言いながら、布団の中に潜り込んでしまう姿が想像されます。潜り込んで出てこない。臥床の中で「とをてくう、とをるもう、とをるもう」という「大風のひびき」を聞くわけです。
やっぱり苦しんでいるというより、憂鬱と遊んでいるような、いや実際は本当に苦しんでいたかもしれませんが、そういう風に感じられる風通しのよさ、抜けの良さがある詩だと思います。
僕が落ち込んで憂鬱なときに詩を書いたら、こんな風にならない、暗くてすご~くやな感じの詩になると思います(笑)。ま、普通はそうなんでしょうが、そうならないところが萩原朔太郎の魅力ということでしょうか。