Eテレ 日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」感想

アート・シーン:

Eテレ 日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」 2019.6.23放送

 

確か、高校の美術の授業の最後の課題がポートレートだった。私は先ずキャンパスを真っ赤に塗りたくり、その上にぼんやりと椅子に座る自分の姿を描いた。それは私のガランス(暗赤色)だった。しかし私の灯火のようなガランスに比して、村山槐多のガランスは体中の血が濁流となって溢れんばかり、マグマのガランスだ。

生きるエネルギーに溢れている人がいる。そのエネルギーを仕事へ向ける人もいれば、芸術に向ける人もいれば、対人関係に向ける人もいるだろう。しかしそのエネルギーを放出する術を持っていなければ。私はこれまでに何人かそういう人を見かけたが、皆一様に苦しんでいるように見えた。その点、槐多は途方もない生命エネルギーの向ける先を持っていた。

代表作、裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』はどうだ。陰茎からおびただしい量のガランスが溢れ出ているではないか。それでも放出しきれないガランスがオーラとなって体中から放たれている。この過剰なエネルギー。しかし不思議なことにこれほど個の熱量が向けられた絵であっても、全く暑苦しくはない。

若い情熱のたぎりであっても、槐多の絵には不思議なことに若さゆえの屈折したネガティブさがない。槐多のエネルギーに圧倒されつつ、ゲストの美術史家、村松和明氏は槐多のこんな言葉を紹介した。「日本中の幸福の絵を描きたい」。この言葉によろめくような感動を覚えた。そうだったのか。槐多は自身のはち切れんばかりのエネルギーを放出するために描いていたのではなかったのだ!!

槐多はきっとモテた人であったろう。自身は報われぬ恋にのたうち回ったにせよ、知らぬところできっと大勢の人に愛されていたであろう。彼の絵であり詩からは激烈でありながら、上品で得も言われぬ愛嬌がある。過剰でやかましい人であったろうけど、きっと周りの人に愛されていたのではなかったろうか。

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