谷川俊太郎のこと

「谷川俊太郎のこと」

 

音楽にしても小説家にしても有名人はたくさん思い浮かぶけど、詩人と言われて名前が出てくるのは谷川俊太郎ぐらいだ。ほとんど読まれなくなった詩の世界にどの分野にも負けない有名人がいることは、詩の真似事をしているような僕にとっても非常に心強いものだった。

谷川俊太郎の詩は平易な言葉使いなので、わかりやすいと思われているが実はそんなことはない。ただ難しい言葉は使わないので間口は広い。でもやっぱり詩であるから一筋縄ではいかない。だから谷川俊太郎にはわかるようなわからないような詩を書く人、そんなイメージが一番しっくりくるのかもしれない。

詩は自分探しみたいに思われていることがある。昔テレビで上野千鶴子が「詩は自分に興味があるひとが書くもの」みたいなことを言っていた。上野千鶴子でさえその認識なのだから参ってしまうが、谷川俊太郎の詩には見事に谷川俊太郎の主張がない。びっくりするぐらい自分をほっぽって書いている。

僕などは詩とはそういうものだと理解していてもつい自分というものが顔を出してくる。自分を何処かにやるなどなかなかそうはいかない。よい詩というのは自分がないからといって他人事ではないし、ちゃんと芯があって自分ごととして書いている。でも人が読むときに邪魔になる作者はいない。難しい話だ。

谷川俊太郎の詩には言葉遊びのような詩、「かっぱかっぱらった」というのがあって、何故か今、谷川俊太郎と聞いて僕が最初に思い浮かべたのはその詩なんだけど、こんな詩、まさに自分がまったくないないような詩でも他人事のような空々しさはない。そういう深さや優しさ、当事者感が谷川俊太郎の詩にはある。

わかりやすい詩、わかりにくい詩、谷川俊太郎の詩にそんな言葉は当てはまらない。わかるようでわからないし、わからないようでわかる。どっちかというとそっちなんだと思う。とにかく平易な言葉なんだけど、日本語というものがこんなにわかりやすくてわかりにくくて、わかりにくくてわかりやすいということを地で行くその奥深さに読むたびにやられます。

意味を持つ言葉から意味を抜き取って、言葉を新しくする。いや言葉そのものはそこにあるままかな。でもちゃんと一から作ろうとしている。あからさまに凄いひとじゃないけど、読めば読むほどこのひと凄いなって思ってしまう。世に詩人は谷川俊太郎だけではないけど、沢山のひとにもっともっと谷川俊太郎の詩を読んでほしい。詩というのは、日本語というのはこんなにも凄いんだってある時ふっと気づくはずだから。

僕が年をとっても谷川俊太郎はあのおじいちゃんのままでずっと居続けるもんだと勘違いしていたけど、そうはいかないよな。そうはいかなかったのかな。

 

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)