Laurel Hell / Mitski 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Laurel Hell』(2021年)Mitski
(ローレル・ヘル/ミツキ)
 
 
何かを表現をしようとする時、その方法は大まかに二通りある。一つは自分自身を直接的に表現しようというもの。自己の経験をそのまま明らかにする場合、その主体は一人称、すなわち「私=作者自身」ということになる。またそれとは逆に、何か表現したい対象物があって、それを客観的に描くという方法もある。勿論、自分自身がその対象物になる場合もあるが、そこは距離を取る。この時、そこで描かれる「私」は「私」であって「私」でない。
 
ミツキは明らかに後者だ。歌詞がたとえ一人称であってもそれはミツキのことではない。ミツキには表現をしようとする何かがあって、あの手この手で(曲を作ったり、歌ったり、踊ったり)そこに到達しようとしているだけだ。本人にそのつもりはないのかもしれないけど。つまりミツキの音楽は、カメラの向こうにあるものであり、揺らめく影であり、彼女の写し絵なのだ。しかもそれははっきりとピントが合ったものではない。では彼女はどこを見ようとしているのか。
 
それは揺らぎ。恐らくミツキは目に見えるはっきりとしたものに焦点を当てていない。揺らぎ、ノイズ、または零れ落ちるもの。そのおぼろげな残像に向かって彼女は手を伸ばし、歌い、踊っているように僕には見える。けれどその残像は長く続かない。おそらく『ローレル・ヘル』に納められた曲がいずれも3分前後で終わるのはそのため。聴き手である僕たちはそこに幾分かの不満を言うが、恐らく寸止めされているのはミツキの方だろう。
 
自ら距離を取る。或いは近づこうとしても距離を詰めることが出来ない。自分のことを歌わないのではなく歌えない。その不明瞭さが彼女の音楽の魅力だ。彼女自身はどう思っているのか分からないけれど、その触れられなさは気品がありとても美しい。しかしその営みは彼女自身をひどく消耗させるようだ。ソングライティングとは自身の深みを覗くことであるとは誰が言った言葉だったか。いくら距離を取ろうが無傷ではいられない。芸術作品はそのようにして生み出されていく。

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