詩について:
「詩との付き合い方」
家には読みかけの詩集がいくつかある。アレン・ギンズバーグの『 吠える-その他の詩(新訳版)』と現代詩文庫の『石原吉郎詩集』 、それとルイーズ・グリュックの『野生のアイリス』。 そこに先日、アマゾンに発注したハルキ文庫の『吉増剛造詩集』 が加わった。
どれも思いついた時に手を伸ばして続きのページから読むことが多 い。時には順序関係なしに途中のページを読んだりもする。『 野生のアイリス』 のようにちゃんとした詩集の場合は割と頭から読むが、 全集やまとめたものなんかはあまり順序は気にしない。 読みたいように読む。『石原吉郎全集』 なんかは読み始めて1年以上経っているかもしれない。 詩集は小説とは違うのだから、飛び飛びに読んでも構わないし、 読んでも分からないものは分らないまますっ飛ばせばいい。あぁ、 なんてフランクな読み物だ。
詩は分らないという声を耳にする。僕も最初はそうでした。 でも段々と分かってきたことは別に分からなくてもいいということ です。例えば音楽。皆分かってますか? ここのメロディの展開がどうとか、 このリリックで作者が言いたいことだとか、 或いはここの和音は理にかなっている、 いや変則だから面白いとか。 誰もそんなこと考えて聴きませんよね。
僕は絵画が好きだからよく美術館へ行きます。 特にゴッホは大好きです。時には感じ入って、あ、今おれ、 ゴッホと分かりあえた、という瞬間があったりします。 とんだ勘違い野郎ですね(笑)。パウル・クレーも大好きです。 あんなよく分からない抽象画でも観てるとなんかいいんです。 感じるものはあるんです、不思議と。
ゴッホもクレーも日本ですごく人気があります。 ルノワールとかフェルメールなら人気あるのも頷けますけど、 ゴッホとクレーなんてどっちも分かりやすい絵じゃないですよね。 でも凄く人気がある。これは理屈じゃないんですね。 分からなくてもいいものはいい。なんでかなぁと言うと、 多分絵画には慣れ親しんでいるからなんです。
僕は言葉が好きですから言葉による芸術が好きです。 それが詩です。音楽や絵画と一緒で全体を眺めます。 何か感じるものがあれば嬉しいし、 なんか分かったぞと思う時はすごい嬉しい。 でも分からなくても音楽や絵画と同様、 流しているだけでも眺めているだけでもなんかいい感じ。 全体が分からなくてもこのフレーズかっこいいなとか、 ここの言い回しは面白いなとかがあればそれで十分なんです。
世俗的に詩はやっぱり励まされるもの、 感動するものみたいなイメージがある。 なんかいいこと言うみたいな(笑)。 確かにそういうものもありますが、 詩の表現はそれだけではありません。詩は言葉の芸術です。 簡単に分かってたまるか、です(笑)。でも分かんなくてもいい、 ゴッホやクレーの絵を見て分からないけどなんかいいと思うように 、分かんなくてもなんかいいなって思ったらそれでいいんです。
いやいや、それが分からんのです、 詩には何も感じないのですと言うかもしれません。 それは多分慣れです。僕も最初はそうでした。 だから詩に興味を持ち始めた時、シンプルな詩集である童話屋の『 ポケット詩集』シリーズを読みました。 そこで興味を持った詩人の詩集を買ってみるんですね。 分かる詩もあれば分からないものもある。そうですね、 詩集読んでなんとなく分かるのって2割もないかもしれません。 でもそうやって詩に慣れてくる。 そうすると分からないことがさして重要ではないと思うようになり ました。
でも分からないことって苦痛ですよね。折角興味を持っても、 その入口で自分にはこれ無理だってなってしまう。 ただ詩ってなんかいいな、 ちょっと興味あるなって人には高い壁眺めて詩って難解だよなぁっ て終わってほしくない。折角興味を持ってもらえたのだから、 もう少しだけ手を伸ばしてほしい。
要するに詩が身近にないだけなのです。 慣れていないから理解しようとしてしまうのです。 理解しようとするから苦痛なんです。でも大丈夫。 考えてみれば音楽や絵画だってそこまで理解していない、 それと同じことなんです。 詩は今その瞬間さえ言葉にしてしまえる懐の深いアートフォームで す。 詩も音楽や絵画のように分かる分からないにこだわることなく、 肩肘張らぬまま楽しめる文化であってほしいなと思います。
分からないを楽しむ。分からないを見つける。分からないを受け入れる。分からないを伝える。分からないを分かち合う。
詩、音楽、絵画。演劇、映画、演芸。
芸術の秋ですね。
楽しもうと思います。
コメントをありがとうございます。
そうですね、芸術の秋ぐらい、インスタントな分かりやすさから逃れましょう(笑)。