『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

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『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

 「風立ちぬ」を観た
 これは菜穂子の物語
 あの子の命はひこうき雲
 一粒。泣いた

これ、2015年に初めて『風立ちぬ』を見たときに書いた僕の詩です。下手な詩ですね(笑)。失礼しました。

一編の詩を読むような、詩集を開くとそこに匿われた物語が一気に吹き出し、詩集を閉じるとすべてが元に吸い込まれていく。あれは夢か幻か、いや現実だったのだと。そのようなじんわりとした余韻を残す映画でした。

映画は詩で始まり、詩で終わります。始まりはポール・ヴァレリーの詩の一節、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」(「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄訳)ですね。風が立ったのなら生きねばならぬ、ということでしょうか。

では風が立たなかったら。当然風が立たなくても人は生きねばなりません。風が立つ、立たないは別にして生きねばならぬのがつらいところではありますが、案外気がつかないだけですべての人に風は立っているのかもしれません。

明確に風が立った二郎。カプローニさんに導かれて我が道を進みます。一方で菜穂子はどうか。僕は菜穂子にも風は立ったのだと思います。というかむしろそこに心を掴まれた。

映画は荒井由実『ひこうき雲』で終わります。そうですね。歌の途中からはエンドロールに入りますが、映画はこの歌も含まれる、この歌でもって完結する、そんな気がします。

宮崎駿作品には「女=守られるもの」、「男=守るもの」という構図があるような気がしますが(とか言いながら僕はラピュタがめっちゃ好き。ま、所詮男ですから)、この映画での菜穂子はそこを凌駕しているような気がするのですが果たしてどうでしょうか。女性からはどう見えたのかな、というところです。

ところで、『風立ちぬ』、これまでと比してもとりわけ絵が素晴らしかったと思いませんか。この点で言えば宮崎駿作品の最高傑作ではないでしょうか。風景の動き、人の動作、角度、それに伴う周りの変化。そうですね、飛行機の上を歩く二郎とカプローニの足元がへこむところ、最高でした。人の動きを見ているだけでもうっとりしますね。僕が好きななところは眼鏡の中の目と実際の目がそれぞれ別に描かれていた二郎の横顔。同じくド近眼の人間として感動しました。

多分いつも以上に絵に力を込めていたような気はします。台詞ではなく風景で、絵でやり過ごす、というケースが非常に多かったように思いました。この映画は詩で始まり詩で終わると言いましたが、そういう絵で見せるという部分も僕にそう思わせたのかもしれません。つまりここは意図的かと。詩というのは言葉ではなく風景なのかもしれません。

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