「スカーレット」感想追記、八郎のこと

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「スカーレット」感想追記、八郎のこと

 

「スカーレット」が終了しまして、僕は日中は仕事ですから、夜に録画していたものを観ていたんですけど、それが無くなるというのは一日のリズムでもあったのでちょっとロス感はありますね。

最近ハマったドラマは「スカーレット」と「いだてん」でして、もう「いだてん」は最近でもないのですが、「いだてん」の場合はやっぱりスペシャルな日常というところがあって、それはオリンピック開催というところで大団円を迎えるわけですよね。だから終わったことは寂しかったんですけど、これはもうどう見ても終わりですから、終わりだなと思えるわけです。

ところが「スカーレット」の場合はもちろん主人公に色々なドラマが降りかかるんですけど、ドラマチックなところは敢えてすっ飛ばして、むしろドラマチックな出来事の前後を丁寧に描くというところに注力されていましたから、僕自身の日常にも組み込まれやすいんですね。だから毎日あったものが無くなるというのはやっぱりロス感、ありますね。

で前の記事で長々と感想を書いたのですがちょっと書き足りないなと思う部分がありまして、このドラマは主人公が女性ですから、男性的な目線をちょっと加えようかと。ま、八郎のことですよね。もっと八郎の中はドロトロしてるはずやろ!ということです(笑)。

端的に言えば僕も父親ですから、子供と会えないというのは恐らく、ていうか間違いなく地獄なわけです。しかも八郎は武志がもっとも成長する時期に会えていないわけですから、それはもうのたうち回っていたはずなんですね。しかしそれが劇中にあんまり出てこない。久しぶりの登場した八郎にその影が見えなかった。実にあっさりと爽やかな八さんのままだった。これはそんなわけないやろと(笑)。

ただ八郎のダークサイドが全く描かれていなかったわけではないんですね。中盤ではむしろ描かれていた。それは天賦の才能が覚醒し始める喜美子と自分の才能に限界を感じ始める八郎という構図の中で八郎の複雑な心境というのは徐々に露になってきて、そのピークが喜美子と八郎の亀裂が決定的になる場面で爆発するという。

穴釜を続けるという喜美子に対して八郎は「僕にとって喜美子は女や。陶芸家やない。ずっと男と女やった。これまでも、これからも。危ないことせんといてほしい」と。これは強烈でしたね。

要するに陶芸家として喜美子には敵わないという事実に対してそこで議論するわけじゃなく、男と女という理屈を引っ張り出してきて、挙げ句の果てに「危ないことはせんといてほしい」という優しさにかまけたセリフを吐くわけですから。これはホントやな男ですよ。このセリフでそれまで八さんのファンだった人の多くがガッカリしたんじゃないでしょうか(笑)。

それに対して喜美子はきっぱりと「陶芸家になる」と宣言をする。この時期はモンスター化する喜美子も相まって観ててしんどかったですけど、でもそれはやっぱり八郎の言動も喜美子の言動もリアルだったからですよね。今モンスター化すると言いましたけど、芸術家になるというのはそんな甘いものではなくて、それ相当の覚悟が必要なんだと。今は猫も杓子もアーティストなんて言い方をしますが、そういうメッセージもここにはあったような気はします。

たださっきの八郎のセリフについてや再登場した八郎に影がないなんてのは僕のうがった見方に過ぎず、本当に八郎は圧倒的に優しい人だったということかもしれませんし、そこはこのドラマの説明をしない、言い過ぎないという視点においてそれだけの余白があったということかもしれません。

ということで八郎目線で考えてみても、彼自身も相当劇的な人生であるわけですから、喜美子とは違った生き方というのがあったわけで。久しぶりに登場した八郎が変わらず爽やかなままというのもね、そこのところの穴埋めを想像するのもそれへそれで面白いなぁと思った次第です。

今度また総集編が放送されるみたいですから、その時には今言ったようなところを留めながら観てみたいですね。

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