フイルムレビュー:
『グリーンブック』(2018年) 感想
主人公の一人、トニー・ヴァレロンガはこの時代(1963年)の多くの白人たちがそうであるように、黒人に対し差別的に扱うことを当たり前のこととして享受している。恐らく本人たちはそれが殊更人種差別であるという認識を持っていない。何しろこの時代はそれが当たり前だったから。
証拠にトニーは仕事であれば黒人であるドク・シャーリーの運転手兼マネージャーを勤めることを厭わないし、ボスである彼の指示に一応は従う。けれど基本的には黒人に対しての差別心を持っている。
ここが微妙なところで、所謂今で言うレイシズムとはニュアンスが異なるのかもしれない。トニーに代表される当時の白人たちは何も知らないだけで、ただ黒人は卑下されるべきであるという昔ながらの慣習に従っているだけなのかもしれないのだから(勿論それも紛れもない人種差別であるが)。
つまりは彼らは学べは肌の色の相違による差別はおかしなことだということに気付ける人間だいうこと。根っからのレイシストは別にして、トニーのようなごく常識的な人間は(にしてはトニーは超個性的だが)それぐらいの感性を持っているし、それは何もトニーが特別だということではない。
知るということをトニーとドクは旅で学んでいく。トニーは黒人がどのような扱いを受けているかということを知り、エリートであるドクは南部の黒人がどのような暮らしをしているかということを知る。今はインターネットがあるから色々なことを知ることは容易だが(単に知ることは知ったことにはならないが)、当時は直に体験することでしか知ることは出来ない。その中でも最も手っ取り早いのは単純に人と人とのふれあいだ。
少しこじつけになるけれど、日本にもこれから多くの外国人がやってくる。島国である性格上、爆発的な移民という形は取らないかもしれないが、我々の教室に職場に隣近所に外国人はやってくるだろう。その時に最も単純に知る方法はやっぱり人と人とのふれあいではないか。
外国人に限ったことではない。身体が不自由な人もそうかもしれないし、性的マイノリティーもそうかもしれない。知らないことを知ることは互いに良きものをもたらす。その事を僕たちはもう少し積極的に考えてもよいのではないか。
勿論ことはそんな単純な話ではないけれど、僕たちにだってそれぐらいの感性はあるはずだ。事実、実在するトニーとドクはそうやって事態を乗り越えてきたのだから。