詩について:
「眼にて云ふ / 宮沢賢治」
先日、友人と宮沢賢治のある詩の話になりまして、僕は宮沢賢治の熱心な読者ではないのですが、そういえばと家に一冊あったので早速読み返してみると、確かにかつて読んだことがあると、微かに記憶がよみがえってきました。「眼にて云ふ」という詩です。宮沢賢治作品の著作権は切れているそうなので、安心してここに転載します(笑)。
眼にて云ふ 宮沢賢治
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
※ 嫩芽(わかめ) 藺草(ゐぐさ) 魂魄(こんぱく)
読んでお分かりのように賢治晩年の詩です。賢治は病床にあって書いた幾つかの詩を「疾中」というタイトルでまとめていまして、「眼で云ふ」はその中の1編です。死の床で書いた詩群のタイトルが「疾中」というものまた凄い話です。
僕は手慰みに詩のようなものを書いていますが、もう賢治の足元にも到底及ばないですね(笑)。ぜーんぜん。もう参りました、って感じです(笑)。要するに賢治の詩には私心がないのです。だからこんなにも透き通っているんですね。死の床の血が滴るような詩でもまるっきり透き通っていて‘私’が全然ないんです。
でもこれ死の床だからじゃないんです。賢治の最も有名な詩に「雨ニモマケズ」という詩がありますが、あの詩の最後は「ミンナニデクノボートヨバレ / ホメラレモセズ / クニモサレズ / サウイフモノニ / ワタシハナリタイ」と締められています。
とか言いながら賢治は農学校の先生でもありましたら、地域の人々に頼りにされるわけです。ある日、寝込んでいる賢治のもとに農夫が相談にやって来るのですが、賢治は衣服を改め、板の間で正座をし話し込んでいたそうです。このことが賢治の死を早めたなんて言われ方もしますが、「雨ニモマケズ」を読んでいると、賢治は賢治で‘私’を捨てることと戦っていたのかもしれない。そんな風にも思いました。
詩というものは自分というものをほっぽってしまうことなのだと、頭では分かっていても、やはり詩は個人から出てくるものですから、いい詩を書きたいとか褒められたいとか、消したくても消えない‘私’といういやらしさが見え隠れしてしまいます。でも賢治の詩にはそれが見当たらない。特にこの「眼にて云ふ」は死の床だというのに透徹していて、特に最後の3行には言い表す言葉もありません。
♪雨ニモ‥風ニモ は われらが学校
の校歌がオリジナルと思っておりました。銀河鉄道 も 999がオリジナルかと思っておりました。
詩作にふければふけるほど、思索、私作 と私が表れてくるのではないですかもし。
なるほど、私作か…。
言い得て妙やね。