佐野元春 in NY『not yet free〜何が俺たちを狂わせるのか〜』  感想レビュー

TVプログラム:

佐野元春 in NY
『not yet free ~何が俺たちを狂わせるのか~』  NHK-BSプレミアム 2017.5.28
 
 
2017年4月28日。ニューヨークにあるライブハウス「ポアソン・ルージュ」で、ミュージシャン、佐野元春がスポークン・ワーズのライブを行った。この番組はその舞台に立つまでを追ったドキュメンタリーだ。
 
スポークン・ワーズとは詩の朗読のこと。詩の朗読は一般的にはポエトリー・リーディングと呼ばれている。少し説明するとポエトリー・リーディングとは50年代に米国で起きた「ビート」と呼ばれるカウンター・カルチャーの主をなすもの。そして「ビート」とはあらゆる制約から離れた文学のムーヴメントのこと。アレン・ギンズバーグの『吠える』やジャック・ケルアックの『路上』などが有名だ。話し言葉で、思いつくまま、文体などは一切無視し、文学でもって反逆の狼煙を上げる。簡単に言うとそんなようなものか。ビートルズもストーンズもディランもその系譜と言っていい。余談ながら当時日本でも「ビート」の影響を受けた諏訪優や白石かずこといった詩人がポエトリー・リーディングを行っている。
 
佐野のスポークンワーズはこの流れを汲むものだが、ポエトリー・リーディングとは少し異なる。スポークンワーズとは詩の朗読にバックトラックを乗せたもの。要するに音楽付きのリーディングだ。あまり知られていないが佐野は通常の音楽活動とは別にこのスポークンワーズを80年代から行っている。
 
番組の中で佐野は言う。「音楽からそこに元から備わっている言葉を取り出すのが僕の仕事」だと。このことから佐野がいわゆる現代詩の詩人とは少しスタンスが異なるというのが窺える。あくまでも音楽ありき、ビートありきのポエトリー。ビートとは鼓動。生きる鼓動。すなわち書棚に飾られた言葉ではなく、移動する言葉ということだ。番組でも佐野は頻繁に街に出かける。街の名もないアーティストに声をかけ、地下鉄に乗り、ポエトリー・カフェへ向かう。言うまでもなく詩は路上に落ちている。

佐野が立ち寄ったポエトリー・カフェでは名もない詩人たちが夜ごと言葉を発している。壇上に立ち、マイクの前で吠える。ここでは詩は生活に根差したもの、日常のすぐ傍にあるものだ。欧米ではこうしたポエトリー・カフェが沢山ある。オレは言いたいこと言い、あいつも言いたいことを言う。少し口を滑らせただけですぐに袋叩きに合うどこかの国とは大違い。トランプが大統領になろうともこの営みは変わっていない。むしろ活発になっているようだ。

そういえば佐野は路上のアーティストの「社会が大きく変わる時にアーティストは何をすべきか」との問いにこう答えている。「ワードとビートで人々がまだ気づいていない事に言及する」と。佐野がよく口にする炭鉱のカナリアとはまさにこのことだ。大きなトピックが起きた時に反応することは誰にもできる。大事なのは何も起きていない時に如何に想像力を働かせるかということなのかもしれない。
 
東京でリハーサルをした後、NYで現地のミュージシャンと最終的な音を練り上げていく。ベース奏者はバキティ・クマロ。彼はかつてポール・サイモンにその才能を見いだされ、アフリカからやって来た。佐野とポール・サイモンとは旧知の仲。ポール・サイモン繋がりということか。ドラムスはそのバキティ・マクロの弟子の若いドラム奏者が担当する。しかしながらこのドラム奏者とは息が合わなかったようで、すぐバキティの別の弟子が現れた。この辺りのドキュメントは面白い。
 
佐野が今回ステージで披露するリストには『何が俺たちを狂わせるのか』と題されたポエトリーがある。変則的な4分の6拍子。今の時代の分断を表現しているのだそうだ。テクニカルな表現になるので、少し知的に過ぎるという懸念があったようだが、セッションを通じて彼らはそれを解消していく。番組の最後に流されるライブ映像をみると、それは見事に解消されていた。バイオリニストのギターのような破れたディスト―ションがゴキゲンなしらべを奏でていた。
 
佐野は今回のステージを日本語で朗読する。佐野は言う。「ポエトリーというのはユニバーシャルなもの。今回はそれを証明するいい機会。それに母国語に誇りを持っているし、日本語でパフォーマンスするのは楽しい。しかし言語が異なる人々にはヒント、取っ掛かりが必要なので今回は映像を用意した。」と。ここでも佐野はNY在住の若い日本人映像作家とセッションを繰り返す。そこに映るのは日本の街の景色と言葉だ。言葉と言っても詩の内容をそのまま英訳したいわゆる字幕ではない。キーワードとなる言葉だけを抽出し展開させる。日本の街の映像とキーワードとなる言葉、そして自身の日本語による朗読とバンドの演奏で観客の想像力をかき立てようというのだ。
 
本番当日、ステージに上がった佐野は軽い自己紹介とこの日披露するポエトリーについて言及した。今から披露するのはジャパニーズ・スポークンワーズ。「Style of ‘ZEN’」と。ここの観客にとって訳の分からない日本語とそれを取り囲む幾つものイメージを媒介にコミュニケーションを図る。言ってみればそれが佐野流の‘禅’のスタイル。そして佐野はかつての「ビート」世代と同じく、悪態を突く。毒にも薬にもならないクール・ジャパンとしてではなく、「ビート」の系譜に連なる街の詩人として。狡猾に素早く。そして、自分の属する文化でもって異文化の人々と接触を図る。自身の立場を明確にしながら。 
 
佐野はライブに向けて準備を進める一方、新しい詩を書きとめていた。セッションの合間を縫って、創作していたようだ。その作業は本番前日の夜も行われていた。佐野は言う。「やろう。インスピレーションがどこかへ行ってしまう前に。」。NYでの自身のドキュメントとして、その詩は『echo ~こだま~ 』と名付けられた。もしかしたらそれは現地で参加したアーティストたちの討論会で、あるアーティストが発した「我々はいつも過去から学び自分の中でエコーさせる」という言葉が導火線になったのかもしれない。

詩は隣近所から生まれる。街の詩人たちは優しさと反逆の精神で言葉を紡ぐ。子供たちに、大人たちに、老人たちに。街路や町内や農村や路地裏に落ちている言葉を丹念に拾い集め、自らの胴体に反響させる。それはこだま。過去から現在、現在から未来。それは決して誰にも途切れさせることのできない。誰にも規定させることはできない。

アーティストにとって一番問題なのは自由な表現を邪魔されること。今ほどその言葉が重くのしかかる時はないだろう。話が逆になってしまうが、番組の冒頭で佐野が記した言葉を最後にそのまま掲示したいと思う。どのような時代になっても「ビート」の系譜は続いていく。私もそうあることを願いたい。
 
 
   かつて50年代 米国にビートと呼ばれる文学者たちがいた
   彼らはあらゆる矛盾に反抗の矛先を向けていた
   企業とメディアに
   近代文明に
   キャピタリズムに
   そしてあらゆる差別と検閲に
 
   2017年の今
   それらはさらに複雑な様相をともなって
   不吉に現実を凌駕している
 
   今 僕らにできることがあるとしたら
   それは亡びに向けて反抗すること
   そして破滅から脱出を
   試みることではないだろうか
 
   僕は夢想する
   新しい思想と新しい行為を持った「旅」のかたちを
   僕は思想する

   忍耐と想像力を傍らに往く創造的な「旅」のかたちを

 

※2017.5.28放送 NHK-BSプレミアム 『Not Yet Free~何が俺たちを狂わせるのか~』より

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